”今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった” ルカ2・11
クリスマスおめでとうございます
今年は平日のイブと降誕祭で、休みを取れなかった方や、仕事帰りに足を運んだ方々は、少々大変でしたね。
クリスマスのミサで、神父様が祈りの時に、
「今日の降誕祭に、仕事やいろいろな事情でミサに預かれない方のためにも主の恵みが豊かにありますように祈りましょう。」
と呼びかけられていました。そうでありますように=アーメン と答えてきました。
↓ミサの前のキャンドルサービス
私は、主日のミサ以外にも、平日のミサに行く時間ができて、しばしば教会に行っています。
「ミサは、自分が力をもらうために行く」ということを以前書いたのですが、
ミサに預かっていると、それだけではなくて、今ミサに預かっていないで闘っている人のために預かっているのだと思えてきます。
その時、仕事で、病院で、遠くで神様のみ旨を行っているすべての人が、力をもらえるようにと。
だから安心してね行けなかった人にもクリスマスの恵みは行きわたるはず
それは、修道会が見えない場所で、すべての人のために祈っているのと同じようなことだと思います。
司祭がミサを捧げる、その祈りを共にしにいく。いけにえみたいなものか。。。
ミサってすごいでしょ。たまには自慢してもいいですよね
しかも世界中で捧げられているのですから。
↓ミサの後に配るお菓子
もう一つ、神父様がお説教の中に、
「皆さんはクリスチャンとして何等かの制約をうけて生活しているのも事実だと思います。」
というフレーズがありました。すみません、あまり聞いてなかったんだな、、、そこだけと耳に入ってきました。
「制約」とはなんだろう・・・と考えましたが、
・主日のミサに預からねばならない
・嘘をつけない
・離婚出来ない??
というような守るべきと事か、自分で自分を信者らしくしようとしてしまう事とか、でしょうか。
神父様のお話は馬耳東風に通過してしまい、わからなかった
でも、ありますね。躊躇すること。
特に宗教のちがいを超えることができずに、できないことが・・・
・国歌斉唱も明治天皇を神と讃える歌として、歌えなかったプロテスタントの教員とか
・みんなで初詣に行ったとしても、心底拝めないとか
内信の自由に関するこでしょうか、
目下の悩みは、とっても行きたいと思っている慰霊の旅というのが、お坊さんによるものがほとんどで、戦争で亡くなった方々のために祈りたい気持ちは同じなのですが、お経を伴うとちょっとキリスト教の祈りと違ってしまうということです。後藤神父様は、「いいんじゃない一緒に行ったら」、教会の先輩も「いいと思う」と言ってくれます。私自身も「宗教のちがいを超えられる!!」と思いもするのですが、
ビビりです
「だからだめなんだ」と晴佐久神父様のお叱りの声が聞こえてきそう
ご意見・ご感想・アドバイス・・・コメントお待ちしています
↓ソロモン会ホームページからお借りしました
教会での降誕祭を終えて、家族でゆっくりワインを開けました
↓フランスパンに、鯖缶と玉ねぎをジェノベーゼソースで和えて
ポンテさんのブログのレシピを参考に作りました。
↓教会で歌ったこの曲は
↓作曲 都倉俊一さんです