不登校の子どもが「学校に行きたい」と言ったときに、「学校に行くな」という母親からの言葉で、子供がマイナスの感情を持ったら、母親から否定されたと理解をしたら、子供は身動き出来なくなってしまいます。
<解説>
>不登校の子どもが
”不登校の子ども” という条件付きの話です。 一般の子供の話ではありません。”不登校の子ども” という特殊性を考えての話 だと理解してください。
子供は学校に行きたいという本能を持っています。とても大きな情動の接近系です。その一方で ”不登校の子供” は学校に反応して子供の心を辛くするトラウマを持っています。そのトラウマの反応のつらさ、情動の回避系の強さの方が大きいから、子供は学校へ行かれません。不登校になっています。学校に行きたいという子供の本能は見かけ上なくなっています。
”不登校の子供” も不登校になるまで学校に行き続け、学校に行くことが子供の存在意義になっています。大人の言葉でいう子どもの人格の形成、その時点までの子供の人格になっています。
ところが子供が 学校でとてもつらい経験をすると、繰り返すと、それまで作り上げてきた子どもの人格が、辛い経験を繰り返すことで、子どもの人格が否定され続けられて、破壊されてなくなり、それに代わって「学校がつらい、学校にいけないという人格、学校にかかわらないで生きる人格」が子どもの中に形成されてきます。
子供の人格という観点からいうなら、元気に学校に行っている子供に向かって「学校に行くな」という言葉は、子供のあり方、人格を否定することになります。ところが”不登校”で学校に反応するトラウマを持ってる子供には 学校に行かす対応は 子どもが新たに身に着けた人格を否定することになります。子供に学校に行かせない対応をする対応が、子どもの人格、人権を尊重することになります。「学校に行くな」という言葉が、この ”不登校の子ども”の人格、人権を否定しているのではなくて、”不登校の子ども” の人格、人権を尊重することになります。