なるほどそうだったのかと思いました。自分自身も、悪いこと(親の意図と違うこと)をしたときに、分かったと言いなさいと育てられました。その時は親に対して理不尽さも感じながら、分かったと、ごめんなさいと言っておけばいいやと思うことも多々ありました。今、自分が親になってみて、子供が望ましくない行動をしたときに、自分が子どものときに感じた理不尽さはおいておいて、とにかく目の前の子供に、いけないことを分からせなければ、という思いだけで、結局自分が育てられたように、分かったと言いなさいと叱っていました。
でもどこかで子供は分かっていないのにこの𠮟り方は意味があるのだろうかと思ってもいました。ただ私にはそれしか思いつく方法がなかっただけです。
親としては一生懸命叱っているのに、良い子を演じる原因を作っているとはその時は全く思っていませんでした。同時に、そうやって育てられた場合、結局同じようにしか子育てできず連鎖(次の世代へ育児方法として受け継がれてしまう)していくのかなぁとも思いました。
私は、子供の不登校という事態が起きたから子供の心に沿った対応を勉強するようになりましたが、不登校がなかったらそのままのやり方で過ごしていっていたように思います。

<解説>

>なるほどそうだったのかと思いました。自分自身も、悪いこと(親の意図と違うこと)をしたときに、分かったと言いなさいと育てられました。
きっとmitsuri2012さんは心が元気な子どもだったのだと思います。心が元気な子どもは親が思うような子育てをしても、子どもは心が元気な子どもに育ちます。心が元気な子どもは親を含めて大人から嫌な思いをさせられても、その子どもなりに何か楽しいことでその時の辛さを解消出来て、心にトラウマを帯びることがないからです。

しかし心が元気な子どもでも、心の辛さを解消出来ないうちに次の親や大人からの嫌な思いをさせられることが繰り返されると、心の元気さがなくなっていって、何かに反応をするトラウマを帯びてしまいます。それ故に親や大人は子どもに嫌な思い、辛い経験をさせた後に、子どもに楽しい経験をさせて、子供の心を元気な心に戻しておく必要があります。

>その時は親に対して理不尽さも感じながら、分かったと、ごめんなさいと言っておけばいいやと思うことも多々ありました。今、自分が親になってみて、子供が望ましくない行動をしたときに、自分が子どものときに感じた理不尽さはおいておいて、とにかく目の前の子供に、いけないことを分からせなければ、という思いだけで、結局自分が育てられたように、分かったと言いなさいと叱っていました。
その時によい子を演じる方法を身につけたでしょうが、心が元気な子どもについての心では、問題ないと思います。

>でもどこかで子供は分かっていないのにこの𠮟り方は意味があるのだろうかと思ってもいました。ただ私にはそれしか思いつく方法がなかっただけです。
心が元気な子どもでしたから、それで良いのだと思います。

>親としては一生懸命叱っているのに、良い子を演じる原因を作っているとはその時は全く思っていませんでした。同時に、そうやって育てられた場合、結局同じようにしか子育てできず連鎖(次の世代へ育児方法として受け継がれてしまう)
>していくのかなぁとも思いました。
心が元気なこともについて、それは子どもの心という点で問題ありません。ただ辛い思いをさせられたときの回避法として、文化として受け継がれてるだけでしょう。

>私は、子供の不登校という事態が起きたから子供の心に沿った対応を勉強するようになりました
子どもが不登校などの心が辛い状態なら、親が子供の心の辛さを理解しない対応、ここで書かれているような親の判断の押しつけは、子供の心をますます辛くします。不登校問題の解決から遠のきます。

>不登校がなかったらそのままのやり方で過ごしていっていたように思います。
それは日本的な文化?かも知れません。お子さんが不登校という心が辛い状態なら、親の思いの押しつけはなさらない方が良いし、それに既に気づかれていらっしゃいます。