共感と表現する心の交流、感情の交流は、心が辛い人にとって、そのつらい心を楽にする機能があります。心が辛い人の心をなぜ楽にするのかの理由を次のように考えてよいと思います。
人間の本能的な辛さは強すぎる五感、痛み、否定(孤立も自分の存在の否定になります)があります。心が辛い人が辛く感じる要素には、何か刺激を受けて心が辛いだけでなく、そのつらい状態に一人とどまっていること、辛い状態で孤立していることも、辛さをより強くしています。この二つの辛さは相乗効果を生じますから、孤立の解消だけでもその分 「心が随分楽」 になります。
日常的に使っている共感の意味です。相手が嬉しそうだと自分も嬉しそうにすることが、うれしいことに用いる共感のようです。相手がうれしい時の共感は、日常生活の中では、それほど意味がありません。心が辛い人に使う共感とは、相手が辛そうにしている時に自分も辛らそうにする事のようで、相手がその分楽になります。しかしこれ意図的に行ったときには同情として相手に理解されて、共感の効果が薄まってしまいます。意図的でなくて、それまでの自分の習慣から共感を表現したときは、共感と相手が感じてくれるようです。
相手の辛い姿や言葉、話を聞いて、それから生じる情動から自分の辛さを言葉や行動で表現するのが、本来の共感ではないかと思います。言葉や体で共感を表現しますから、共感を示す人もとても辛くなります。現実にここまで共感を示す場合はないのではないかと思います。
相手からの嬉しそうな姿を見たり話を聞いて、それらから生じる情動から、自分も嬉しい思いになる場合には、相手の感情と自分の感情が嬉しいという感情で一致しますから、これは共感と言えると思います。現実にはそれほど意味がありません。
共感と同情と、その表現の仕方にかなり似ています。区別できないかもしれません。そこで共感と同情を心理学書で調べてみましたが、あまりはっきりとしません。
共感(empathy)は「われわれ自身の外側にある対象や情緒について体験したり、あるいはその対象や情緒を理解する能力」とされるもの。同情(sympathy)は「他者の感情を味わったり共有したりする能力、他者の苦しみや悲しみに心を動かされること」と定義されています。
と書かれていましたが、私に言わせれば相手と同じような辛さを無意識に表現するのが共感で、そこに意図を感じると同情となるような気がします。