国語の試験に、こんな問題が出された。

 「次の文の中で描写がうまいと思われる箇所を二つ書け。」

 私は、「何? この問題?」と思ったが、自分で「描写がうまいな。」と思った箇所を書き出した。

 結果は、〇が一つ。×が一つ。

 教師いわく「ここの描写がうまい。」って・・・。それは、あんたの考え方で、万人がそう思うもんでもないだろう。

 描写がうまい・・・と思う箇所は千差万別でいい。小説の読み方や受け止め方が、万人一緒であるはずがない。

 
 物理の教師が、試験範囲を示す。「今回は、ドップラー効果は出しません。」

 試験開始。目を疑う。最後の問題に「ドップラー効果」出題されている。

 教師に抗議に行ったら、「ドップラー効果は出題すると言ったじゃあないか。」って・・・。

 お前は雇用・能力開発機構の相談員か?? 前言を翻すなよ。

 結局、他の教師は見て見ぬふり・・・。困ったもんだと思った。


 私は小学校低学年の時、スキップが出来なかった。

 何かのダンスだったと思う。スキップで踊る場面があり・・・。

 しかし、私はスキップが出来なかった。

 教師は私がスキップが出来るまで、一人で練習することを指示した。

 私は、泣きながらスキップを練習したのを覚えている。

 スキップって、嬉しい時にする動作じゃないか? なぜ、私の中ではスキップ=悲しい・悔しいと思う動作なのだろうか?

 結局、ぎこちないスキップができるようになり、クラス全員の前で披露させられた。それも心の中では傷となった。

 私が以後、教師に心を開かなかった原因は、スキップの練習を強要された事にあるのかも知れない。