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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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表紙

 

地図

 

1 バイパス道路と庵谷町長大橋の完成

 

P4 バイパス道路と庵谷町長大橋の完成

 庵谷地区には最大の難所がある。松ケ谷地内の崖崩れの心配がある場所である。大雨で心配がある時は、国道四一号線は通行止めになる。この場所は距離も長いし山腹なのでこれを避けるため、国土交通省北陸整備局は、富山高山連絡道路の建設の一つとして対岸を経由するバイパス建設に着工し、平成二二年(二〇一〇)十一月二十日にバイパスが完成した。庵谷と町長を結ぶ大橋は、全長三六九メートルで、庵谷町長大橋と命名された。

「細入村史」

 

 

「表 紙」

 

「地 図」

 

1割山森林公園「天湖森」

P4 割山森林公園「天湖森」
 平成八年(一九九六)から土田池付近は開発が始まり、「緑のふるさと健康ふれあいの里づくり事業」で森林公園が完成した。割山森林公園「天湖森」といい、星空の天ときれいな湖と緑いっぱいの森からとり、「遊びと楽しみ」を「天こ盛り」にしてもらう意味である。


 「総面積十四ヘクタール、オートキャンプサイト、フリーキャンプサイトや設備の整ったコテージ、バリアフリー対応のロッグハウス、炊事棟、バーベキュー棟などが設置され、自然を満喫しながらアウトドアライフをエンジョイできる。

 

 

 

 

 また、園内中央に位置する土田池では、野ガモや野鳥のバードウオッチングが楽しめるほか、ニジマス、コイ、フナ釣りもでき、水辺植物園には、ミズバショウ、ハナショウブなど、可憐な季節の花々が心を癒してくれる。

 


 スポーツ好きの方には、十八ホールのパークゴルフ場、テニスコート、フットサルコート、フィールドアスレチックがあり、夜は天体観測棟で、満点の星空を観察できる。天湖森は、どなたにも気軽に楽しんでいただける、スポーツと大自然のレジャー施設である

 

 

 

 

 

 

 

「天湖森の案内パンフレット」参照

 山椒とナンバのおはなし    富山市岩稲

 

 

山椒がナンバにお嫁に来てくれと言った。

 

ナンバは、

「わたしがいろむまで待ってください」

と言いました。

 

山椒は

「あんたのいろむまで待っておったらわたしゃ目がむける」 

 

「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」

細入婦人学級編より

表紙

 

 

 

 

目次

 

 

 

地図

 

 

 

 

1 集落北の題目塔

 

 

P4 集落北の題目塔

 

 楡原法華圏には石仏は皆無であるが、その代わりに題目塔がある。扁平な川石や割石の正面に宗祖日蓮の筆法による題目、いわゆる髭題目を刻んだものである。村人は「ホーケサマ」「ホーカイサマ」と呼んでいる。集落の南北の入り口にあってこれより法華圏であることの榜示と村の安泰を守る立石と考えられる。

 

 集落北の題目塔は、かつては楡原の北限にあったものと見られるが、現在は村界近くの岩稲トンネル横の国道西側崖上に建っている。

 

 天和三年(一六八三)の銘があり細入地域では猪谷西禅寺前の地蔵石仏二体に次ぐ古い在銘石造物である。高さ四六センチ、一辺五二センチの大きな切石を台石とし、高さ一〇九センチ、横四〇センチ、厚さ三二センチの立石は川石を若干加工したものである。上方に破風状の頭部を残し、これより下方を削って塔身面とする。額部の中央にある月輪状のくぼみの中に凡字が刻まれていたのかも知れないが風化していて読めない。

塔身面の最下に法華を大きく線刻する。中央に大きな題目と「十界萬霊」を刻み、その向かって右側に「天和三年七月十六日」左側に「施主千部講中」と刻まれている。

 

 明治一七年(一八八四)の道路改修以前に三〇〇メートルほど南にあったものを現在地に移したと伝えられている。

 

 楡原では毎年二月一六日の火祭りの日に外から村に災いを持ってくるのを防ぐため道切りとして、楡原集落の自治会長が札付き締め縄を塔に巻いている。

                        

「細入村史」

 

大垣宗左衛門の墓   富山市猪谷

 

 

飯村家の裏に小さな五輪塔がある。これは、美濃の国大垣より対岸の小糸集落へ移り住んだ大垣宗左衛門の墓と言われている。

 

宗左衛門は、当時の藩主への上納米の負担に苦しんでいた百姓のため、大罪と知りながら、単身加賀藩の藩主へ直訴し、身を挺しての訴えに感動した藩主が、上納米を軽くし、また銀納を許されたのであるが、新川代官が直訴という罪を犯した宗左衛門を召し取るため、役人を遣わした。それを予期していた宗左衛門は、うまく逃げ、神通川を渡り、役人が手を出せない富山藩である西猪谷へ着いたのである。

 

そうして、宗左衛門は、猪谷の森家に身を寄せ、猪谷のために尽くしたといわれている。

森家には宗左衛門が所持していたという「天狗の爪・・・ サメの歯?」なるものがあったが、昭和十六年の大火によって消失したという。

 

「細入村史」より