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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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その50  蟹問答    富山市蟹寺 

 

 

 

むかし、あるところに寺があったって。そこには、禅坊主一人しかおらなんだって。

 

それからして、軒に巣を掘って、でかい蟹がおるやつを、知らずにおったって。

 

ところが、そいつが化けて人になってや、夜さになるってゆうと、坊さんに問答をかけて来るんじゃと。

 

そして、その問答に

「一つのものを饅頭(まんじゅう)とはいかに」

といったら、かけられたほうは、

「一枚のものも煎餅(せんべい)とゆうがごとし」

って、解いたが、それが解けんというと、蟹のやつやで、はさみ切ってや殺ぇちまいよったって。

 

そしたら、ある時、一人の偉い坊さんがおって、かけりゃぁ問答解き、かけりゃぁ問答解きしておって、この最後の問答のとき、

「おのら、この蟹寺の後ろにおる蟹じゃろが」

って、坊さんが持っとる忽(こつ)ってもので、ピシャーっと叩いたら、その拍子に叩っ殺されてしまったって。

 

そいで、今でもそこの蟹には、叩かれた跡がちょいちょいとあるんじゃと。

 

 しゃみしゃっきり鉈(なた)づかぼっきり。 

(中切与三)

 

民話出典 「宮川村誌 通史編下 昔話」

表紙

 

地図

 

1 片掛銀山跡

P4 片掛銀山跡

 

 今から400年ほど昔の天正年間に、この辺り一帯で銀山の開発が盛んに行われた。片掛・庵谷・吉野銀山で、坑口が100ほどあったという。

 

 その鉱口の跡が、庵谷へ通ずる村道の脇に、幾つか残っている。大渕寺から峠を少し上った所には、細入観光協会の『片掛銀山跡』の道標が立っている。

 

「細入村史」

 

 

岩稲に伝わるお湯の出たはなし  富山市岩稲

 

  

これは、今からおよそ百二十年ほど前に、岩稲にあった温泉の話です。

 

村の人たちは、そこを「空の山」と呼んでいました。今でも、そこには、温泉の湯ぶねの跡が残っています。

 

いつの頃からか、その「空の山」に、温泉が湧き出るようになりました。そのことは、岩稲の人の秘密になっていたのですが、やがて、近在の村々の人たちにその秘密は、知られることになりました。

 

岩稲にお湯がわきでていることを知った近在の人たちが、昼、夜を問わず、ワンサワンサと押し寄せて来ました。その中には、悪い人がいるようで、部落の人が苦労して作った農作物が荒らされたり、毎日のように物が盗まれたりするようになりました。

 

このままでは、部落の農作物や宝物が盗まれます。これは大変です。岩稲部落の人々は頭をかかえて対策をねりました。そして、対策協議の結果、大切なお湯を止めることにしました。これは、すごい決断でしたが、部落を守るためには、どうしてもやらなければならないと決断しました。

 

しかし、自然に湧き出るお湯を止めることはとても難しいことです。お湯を止めるにはどうしたらよいだろうか?部落の人たちは、四方八方手をつくして、調べました。そして、見つけたのが、次の方法でした。

 

まずは「あしげうま」、つまり、白い毛の馬が必要でした。しかし、部落には、あしげうまはいません。部落の人たちはお金を出し合い、一頭の「あしげうま」を買い求めました。

 

そして、「あしげうま」を、湧き出る温泉の湯ぶねに泳がしたのです。すると、不思議や不思議、見る見るうちに、お湯が少なくなり、ついには、一滴も温泉が出なくなってしまいました。見事に温泉は止まりました。

 

「岩稲のお湯がかれたとさ」

たちまちの間に、その話は近在の村々に広がり、ピッタリとお客は来なくなりました。そして、「昔、岩稲に温泉が湧き出ていた」という話は、伝説として今に伝わっています。

 

 

さてさて、これからお話するのは、温泉が出なくなってから百二十年過ぎた、現在のお話です。

 

部落のある人が、お湯が沸き出た話は、本当か調べてやろうと、思い立ちました。その人は、来る日も来る日も、部落を流れる谷川という谷川に手を入れて、どこかにお湯が出ていないか探し回りました。しかし、どこにも温泉は見当たりませんでした。

 

そんなある日のこと、部落の下を流れる神通川へ仕事のために出かけました。ふと、見ると、神通川の崖の淵からかすかに湯けむりが立ち上がっているではありませんか。不思議や不思議。さっそく、その湯けむりに手を入れてみますと、三十℃ほどの温かさを感じました。その場所は、岩稲と楡原の境の高原という所です。確かに、温泉が今でも湧き出ているのでした。あの話は本当だったのです。

 

しかし、残念なことに、神通川第二発電所ダムができ、その場所は水の中になってしまいました。きっと今でも、その場所からは、三十℃のお湯が湧き出ていることでしょう。

 

岩稲の温泉を復活させるには、ボーリングも不用、人力も機械力も不用です。あしげうまを、もとのお湯の出た口へ連れて行き、その手で三回、「お湯よ再び出てくれ」と、まねけば、たちまちのうちに三十℃の温泉が湧き出ますとさ。

 

郷土の伝説 

官報ほそいり 昭和三十九年十一月一日発行

その48    蟹寺の由来 猪谷の古老の話    富山市蟹寺

 

 

 昔、蟹寺部落を石山村と言い、七軒の家がありました。又、小さな沢が多かったので、この村を小沢村とも言ったそうです。

 

 この石山村に慈眼院と言うお寺が在り、お寺のすぐ横には大きな池が在って、常に清い水をたたえ、しかも深くて底無しとされていました。池には何百年も年を経た大きな蟹が住んでいると言い伝えられていましたが、村人が時折、池を覗いてみても大きな蟹の姿は見えず、池の縁に小さな蟹が遊んでいるだけでした。

 

 或る日、何時も朝には必ず慈眼院の鐘が鳴るのに、その日に限って鐘が鳴りません。不思議に思った村人が寺へ行ってみましたが、和尚さんの姿が見当たりません。

 「近くの山へでも出掛けたのだろう」

と待っていましたが、二日経っても、三日経っても、和尚さんは帰って来ませんでした。

 

 村人達は大変困って、新しい和尚さんを取り敢えず頼み、慈眼院に住んでもらう事にしました。それかにら二、三日は、朝、いつもの様にお寺の鐘が鳴り、皆安心していましたが、ものの一週間も経たない内に、又、鐘が鳴らなくなってしましいました。

 お寺へ行ってみましたが、新しい和尚さんの姿が見当たりません。

「きっと、何か化け物が出て来て、和尚さんを食べたんだ」

との噂が広がりました。

 

 この後も、旅の僧や尼さんが、時々泊まりましたが、朝になると姿が消えています。村の人々は恐ろしくて、寺の近くへ行かなくなりました。

 

 或る秋の日、白髪の和尚さんがこの石山村を通りかかり、そして慈眼院の噂を聞いて、

「私が泊まって、化け物の正体を見届けましょう。若し明日、寺の鐘が鳴ったら直ぐ来てください。又、鐘が鳴らなかったら、私は死んだと思って、墓石でも建てて下さい」と、村人に言い残して、夕方、お寺の本堂へ入って行かれました。

 

 和尚さんは座禅を組んで、夜の深けるのを待っていました。夜半、十二時を過ぎると、突然、一人の小僧が入って来て、和尚さんに向い、

「私の問答を解いてみよ」

と言いました。

 

 和尚さんが黙って座禅を組んでいると、

「一人でも仙(千)とは、これ如何に」

と問いかけて来ました。

 和尚さんは透かさず、

「一人でも番(万)人と言うがごとし」

と答えるや、手に持った錫で、小僧をハッシとばかりに叩きました。すると小僧は何処へともなく立ち去りました。

 

 暫くすると、又、別の小僧が、

「そばに在っても無しとは、これ如何に」

と問いかけて来ました。和尚は、

「買っていながら瓜と言うが如し」

と答えるや、又、錫で小僧を叩きました。小僧は、又、何処かへ消えて行きました。

 

 暫くすると、又、別の小僧が、

「水を汲んで使うのに火しゃくとはこれ如何に」

と問いかけて来ました。和尚は、

「木で作っても土(槌)と言うが如し」

と答え、又、錫で小僧を叩きました。こうして一晩中、次から次へと小僧が現われ、問答をかけて来ました。

 

 そのうちに東の山が少し白みかけて来ると、今度は大入道が出て来て、

「若し、私の問答に答えられぬ時には、お前を食べてしまうぞ」

と今にも打ち殺しそうな形相をして、和尚を睨みつけました。

そして、

「小足八足、大足二足、両眼天を睨む、これ如何に」

と大きな目をギョロギョロさせながら、われんばかりの大声で言い放ちました。

 

和尚は落着いて大喝一番、

「お前こそ、隣の池の大蟹であろう」

と言うが早いか、力一杯、錫で大入道を叩きました。すると、大入道は、こそこそと蹌踉(よろ)けながら外へ出て行きました。

 

 和尚は夜が開けると、村中に響けとばかりに、鐘を 打ち鳴らしました。村人達がお寺に駆け付けてみると、寺の横から池にかけて、たくさんの子蟹が死んでいました。そして、池のすぐ横には四斗鍋程もありそうな、大きな、毛むくじゃらの大蟹が死んでいました。

 

 村人達は大変喜んで、和尚に厚く礼を言い、そして、祟りを恐れて、この蟹を慈眼院で厚くほおむりました。

 和尚は、大蟹の甲羅を剥ぎ取ると、それを持って富山へ行き、海岸寺にほおむったと言い伝えられています。

 その海岸寺も空襲で焼け、蟹の甲羅はその後どうなったのか、定かではありません。一説では、この坊さんは、海岸寺の住職だったとも言われています。

 

 以来、この石山村は蟹寺村と、又、かの池は埋められて、池田と呼ばれる様になり、池田の田圃からは、毎年、良い米が採れるそうです。

 

民話出典  

丸山博編著「猪谷むかしばなし」

鮎と鯛と鯒   富山市岩稲

 

 

鮎と鯛と鯒が仲良く花見に出かけたと。お酒を飲んだり、ごちそうを食べたり、唄ったり、楽しくやっているうちに、鮎が鯛と喧嘩をしたと。

 

鯛は真っ赤になっておこるし、鮎は青くなって逃げ回りながら、鯒さん仲わけしてと言ったら、「あい・たいした事こちゃしらん」 語って候

 

「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」

細入婦人学級編より