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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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馬鞍谷の大蛇   富山市船峅

 

 

馬鞍谷もやはり大沢野町の船峅地区である。

 

昔、この付近の大沢の池のほとりに、地方きっての豪家があった。

 

ところがある夜、ともに近隣の仇同志であった豪農の夜討ちを受けた。家の子郎党力をあわせてよく防ぎきったが、ついに破れさった。


そのときのことである。家伝来の家宝であった「馬の鞍」を大沢の池に投げ捨てた。

 

すると一天にわかきかき曇り、天地鳴動して大暴風風となりみるみるうちに池の水があふれ、堤が切れて大洪水となった。

 

鞍はいつのまにか一匹の大蛇となり、渦巻く水とともに川から海へと流れ入ったと伝えられている。


のちこの谷は馬鞍谷といわれ、池だったところに水神として諏訪社が祀られた。なお毎年九月一日の祭りには、豊作を祈って地方まれな大草ずもうが行われるようになった。


越中伝説集

帝竜寺の大蛇 その57

 

   

 

富山市発寺家行きバスの終点が、名刹帝竜寺前である。

 

この寺はもと退竜寺、また、帝立寺といわれ、古く奈良朝の大宝元年(701)の創立を伝えている。

 

同寺の縁起に、昔寺の奥地の池原に大蛇が棲んでいて、人畜を害することがひどかった。

 

当時この寺の住職がこれを退治し、その害を除いて、寺を退竜寺と改めたものといわれる。

 

寺は、はじめ文武天皇の勅使によって建てたので、そのさきは帝立寺であったが、のちいまの帝竜寺となったものである。

 

なお、大蛇のいた大池は、退治とともに水が涸れて原となったので、池原と呼ばれるようになったのだといわれている。

 

大沢野町誌

 

弁山のいわれ  大沢野町大久保

 

 

いまはその山の跡形もないが、上大久保と中大久保の間は小高い丘であって、その東側に池があり、児童たちの遊びによい所であった。

 

ある日一人の子守女が主人の幼児を連れて、ここで遊んでいる中に、山犬(狼)が忍び寄って幼児を食べようとした。

 

子守女は気づいて大声で救いを求めたが、付近に人影はなく、といって幼児を棄て去ることも、ともに逃げることもできなかった。

 

子守はとっさに自分の身体で幼児をかばい、自ら山犬の牙にかかって血みどろになった。

 

後ほど、人たちは知って、あわてて助け寄った時には、子守はすでに息が絶えていたが、その腹の下にかぼうていた幼児は、しっかりと守りつづけられていた。

 

人たちはその子守女のけなげな行をたたえて、この山を「女中山(ベイ山)」といった。

 

いつかなまって「ベン山」となったが、ベイとは、ところでは女の子(主として女中のこと)をいう方言である。

 

大沢野町誌

塩泉と多久比礼志神社    富山市大久保

 

 

大久保地域の塩に鎮座する多久比礼志神社は、延喜式神名帳にもみえる古社である。

 

大昔、天武天皇の白鳳年間(七世紀後半)、弥鹿岐という人が利波浦から船出して蘆生笹津についた時、見知らぬ一人の翁が現れて、

「この磯の裏側に池がある。水は塩分を含んでいる。すぐ行って検べてみよ」

というや、姿を消してしまった。

 

弥鹿岐は今のは気のせいかと思いながら、磯の裏に出てみると、驚くなかれ清水が地上に湧き出ていた。

 

翁のいった池であった。水をすくって口にもっていくと非常に塩っ辛い。

 

弥鹿岐は先の翁が唯人でなかつたことを知り、これはきっと神が自分に授けてくれた教えにちがいないと信じ、新しい社殿を作り祭神と崇めたのであった。

 

後の塩村という字も、ここに由来する。

 

越中志微・越中伝説集

姉倉姫の命と舟倉山   富山市舟倉

 

 

舟倉に鎮座する姉倉姫神社にまつわる物語である。

 

昔、上新川郡の東南にある舟倉山に、姉倉姫の命という女神が住んでいた。この女神の夫は伊須流伎比古といって、越中と能登の国境にある補益山に住んでいて、二人の神は仲むつまじく心を合わせて国内の政治にあたっていた。

 

ところが、隣の能登国の杣木山にいた能登姫という心のよくない女神は、越中の領地がほしくなり、男神の比古をうまくだまそうとした。

 

この事を知った姉倉姫は、使者を出して改心させようとしたのであるが、意地悪な能登姫は全くそれを聞きいれず、ますます伊須流伎比古に接近したのだった。

 

このような能登姫の態度に怒った姉倉姫は国中の兵を集めて能登姫征伐の軍をおこし、それに対抗して能登姫もまた防戦の構えをみせた。

 

この両者の戦いは、氷見市宇波山にはじまり、敵味方入り乱れた争いに発展し、なかなか収拾がつかなかった。

 

こんなむごい有様をみて、大変心配したのは天地の神々であった。まもなく神々は使者を高天原におくり、高皇産霊神にこのことを注進したところ、尊は大変驚き、出雲の大国主命に越の争いをしずめるよう命ずることになった。

 

大国主命は出雲をたって越路に入り、越の神々といろいろ軍議をなし、姉倉姫の立て籠もる舟倉山の城を攻めた。

 

しかし、舟倉山にはまわり七里(二十八キロメートル)もある大きな池があって、とても攻め登れそうにもなかった。そこで山を掘って池水を切り開くと、水はせきをきって大急流となり、あっという間に流れ出てしまった。

 

これにびっくりした姉倉姫は、柿梭の宮に逃げのびることになった。それも大国主命の軍に襲われ、とうとう生け捕られてしまった。そして姫は呉羽山の西麓の小竹野に流され、その地で布を織って貢物となし、また越中の女たちに機織りの仕事を教えることになった。

 

 

いっぽう、能登姫と伊須流伎比古も大国主命の攻撃に必死に抵抗したけれども、まもなく捕えられ、海辺で殺されてしまった。

 

大国主命によって越にふたたびあかるさがとりもどされたこの姉倉姫と伊須流伎比古の話は、越中の初めを物語る神々として、今も語り伝えられている。

 

越中伝説集