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『蟹寺の史跡・見学ポイント』

 

2 電灯無償供与記念碑(P5)

 

 秋葉神社からやや離れた小高い丘の上に碑がある。
 大正九年( 一九二〇)、当時の寒村にとって驚天動地ともいうべき、「出力五万キロワット」の発電所建設の構想と工事の申し入れが日本電力株式会社からあった。
 村としては工事に協力しながらも集落全体の利益について検討を重ね、その結果、対価として村全体で二五ワットの電灯一〇〇灯の永久無償供与と発電所の貯水槽からの水を農業用水に分水する契約を交わした証として城ケ山に記念碑が建立された。
「細入村史」 

 

『蟹寺の史跡・見学ポイント』

 

1 蟹寺城跡

 

 飛騨との各街道、河川を押さえる要塞で、経済、軍事の交流を掌握し防衛の拠点として城があった。城郭は北西、南東の二面に堀り切られてあり、幅二十三メートル、奥行き十二メートルの平坦地で中央がやや高くなっている。城跡は、城ケ山の頂上付近にある。
「細入村史」

『加賀沢の史跡・見学ポイント』

 

10 加賀沢の歴史(P19)

 

 猪谷から国道360号線を走り、2620メートルの越路トンネルを抜けて、しばらく行った所が、「加賀沢」である。現在は無人の集落ではあるが、家が一軒残っている。昔からこの地に住む持ち主の家で、夏場には、避暑に訪れているという。
「蟹寺から宮川を遡ること4キロメートル、宮川左岸のわずかな傾斜地に、国境の小村『加賀沢』がある。江戸時代から明治期にかけて9戸の村であった。『カガ』という地名は、草地に由来するという説と、崖地に由来するという説がある。
 対岸の岐阜県側にも加賀沢という集落があり、細入側の西加賀沢に対して、東加賀沢と呼ばれた」

「細入村史」

 岐阜県宮川村誌に、「東加賀沢」の地名の由来について記述があるので紹介しよう。
 「祢宜ケ沢上(ねががそれ)・小豆沢(あずきざわ)などのように、昔のこの地は沼沢地で、一面に野生の『蘿藦(ががいも)』がよく茂ったので『蘿藦沢(ががいもさわ)』とよび、それがしだいに転訛して加賀沢となったかといわれている。
 ががいもは山野に自生する宿根蔓草で、葉は対生し、夏のころ紫色五弁の小花をつける。実の長さは七、八センチでこれを採って綿に代用した。地名にはその地に生い出るものの名をもって、名付けたものが多く、たとえば、『古事記』上巻に天の蘿藦船(ががみのふね)を、『書記』には白藦皮舟(かがみのかわふね)とある。『和名抄』や『本草』に蘿藦(ががいも)は、一名藦蘭(かが)・和名加加美(かがみ)・白藦(かがみ)、夜末賀々美(やまかがみ)、徐長卿に和名比女加々美(ひめかがみ)などとある。」
「宮川村誌」
 
 その昔、この辺り一帯は、草が生い茂る沢地であったようだ。東加賀沢は、昭和39年(1964) に廃村化している。
 
 「江戸期の加賀沢は、水田がなく、わずかな畑地と山や川の恵みに頼っての生活であったと思われる。細入谷の中でも、税率はとりわけ低く、街道の物資輸送に携わるほかは、平野部とほとんどかかわりのない生活が、そこに展開していたのであろう。国境といっても、このぐらい奥地になると、東加賀沢や小豆沢方面とは、日常的な往来が盛んであった。

 明治初期の加賀沢は、水上谷の南、街道の山側に家が並んでいた。
 明治20年( 1887)近くに飛騨街道が改修され、明治45年( 1912)に猪谷小学校加賀沢分教場ができた。これに伴い、対岸の東加賀沢からの委託児童も通学するようになったため、独立の校舎が大正2年( 1913)に建てられた。これから以後、集落は様変わりし、道路の川側にも新しい家が建てられた。一時、黒鉛が掘られたこともあった。

 この状態は昭和30年代まで続いたが、昭和39年( 1964) に加賀沢分校が廃止され、このころから急激に挙家離村が進むようになる。…そして、加賀沢は村落社会としての機能を全く失ってしまった。その離村先の多くは、富山市・大沢野町方面であった。」
「細入村史」