『蟹寺の史跡・見学ポイント』
12 旧慈眼院跡(P16 )
山裾の清水が湧き出る場所で通称池田という沼地に蟹の妖怪が住みつき村人を悩ましていた。富山の海岸寺住職がこの慈眼院を訪れ、妖怪を退治したと伝承される旧慈眼院は、現在の田んぼより一メートルほど下がった場所であったとされている。 「細入村史」
『蟹寺の史跡・ガイドブック』
10 市川寛斎の詩碑跡(P15)
通称「橋場道」を降りた場所に、二体の浮彫り地蔵があり、そこからわずかに行った岩の台地に市河寛斎の詩碑が建っていた。この地は明治五年以降、荷馬引きの茶店や宿屋などが営まれていた。この地から上流二百メートルあまりの両岸から川にやや突き出している箇所が、かつての籠の渡し場である。
平成十六年(二〇〇四)台風二十三号によって、かってないほどに宮川が氾濫し、この「詩碑」も台地諸とも濁流に飲まれ跡形もなくなった。
しかし、平成二十二年(二〇一〇)九月、建立の場所から約三〇〇メートル下流の土砂の中から掘り出された。三分の二はしっかり形を留め、奇跡的と思えるほどである。現在、猪谷関所館に展示されている。
「細入村史」
『蟹寺の史跡・見学ポイント』
8 新国境橋(P12)
越中と飛騨の国境の難所として有名な籠の渡しの場所には、明治5年( 1872) には刎板橋が架けられていた。明治9年( 1876) の蟹寺村絵図には、現在の国境橋近くに、板橋が書かれていて、ここには明治の初め頃から板橋が架けられていたようだ。大正14年( 1925) 撮影の写真には、蟹寺と谷間に架けられた初代国境橋が写っている。

飛騨街道の往来が激しくなり、道路の整備とともに、橋も新しくなり、昭和初期から昭和41年( 1966)までは2代目のアーチ型国境橋が架かっていた。現在の新国境橋は、昭和41年( 1966)のもので、長さは97メートルである。
「細入村史」参照