☆明日の天気図☆

☆明日の天気図☆

明日も晴れるといいね…。

 

テーマ:
「言葉の力」
 
今回はある檀家さんの言葉の力にまつわるお話です。
皆さんは自分のことがお好きですか?
実は私自身お恥ずかしい話ですが自分に自信がもてず、顔はもちろん自分のことがあまり好きではありません。
ある日、母に誘われて、メイクレッスンに行く機会に恵まれました。
メイクを教えて下さった先生は、とても明るく素敵な先生でした。キラキラと輝いていて自信に満ち溢れているように感じました。
自分もメイクをすれば多少は自分の顔も好きになれるのではないかと、レッスンを受けることにしました。
メイクが終わり、普段からそんなにまじまじと自分の顔をみることがなかったので鏡に映った自分をみて、愕然としました。
鏡に映った私の顔はとても残念そうな表情をしていました。
自信のない表情をする私にメイクを教えて下さった先生は、もっと笑ってとアドバイスを下さいましたが、中々笑うことができません。
先生は、「何か悩んでいることがあったら話してみて?」と優しく聞いてくださいました。
私は、「未だに自分に自信がもてず、顔はもちろん自分のことがあまり好きではありません。」と先生に打ち明けました。
すると先生は、普段から「私なんて」という言葉を口にしていませんか?といわれました。
「負の言葉、マイナスの言葉」を口にしてない?と。
「いくら外見を美しくしていても心が美しくなければ自分に自信を持つことはむずかしい。
せっかくのメイクも台なしになってしまうの。
まずは、自分が日頃から発している言葉に気をつけてみて!」とアドバイスを頂きました。
そうすれば、自然と自分に自信がもてるようななるはずだよ!と。
アドバイスを聞きながら私は、日蓮聖人が書かれた手紙「重須殿の女房御返事」の中の一節を思い出しました。
「わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。」
自分で発した悪い言葉は自分の身を滅ぼしてしまう。よい行いは心から出てその人を幸せにするという意味のお言葉です。
自分の容姿やオーラは、毎日自分が発する言葉によって作られています。
言葉には、人を励ましたり、喜ばせたりする力もありますが、落ち込ませてしまったりする力もあるのです。
言葉は、使い方によっては人を傷つけるだけでなく、自分をも傷つけてしまうのです。
ですから、みなさまも日頃、自分の言葉は自分はもちろん、人にわざわいを与えていないだろうか。幸せにできているだろうか。と振り返ってみて下さい。
自分に自信を持つためにまずは、なりたい自分のイメージをもって良い言葉を発すること。
私自身も日々勉強して、良い言葉を吸収し、このブログを通して、人生が明るくなるようなそんな良い言葉を皆さまにもお届けしていきたいです。
周りの人がこの人のそばにいると幸せだなと思って貰うことができるように日頃から「言葉」に気をつけて生活していただければと思います。

テーマ:
日本の男子マラソンランナーに君原健二さんという方がいらっしゃいます。この方は、東京、メキシコ、ミュンヘンと3度のオリンピックに連続出場し、良い時では銀メダルを獲得したり、その他にも、国内外の数々の大会で優勝を収めるなど、日本男子マラソン界で最も実績を残した選手と言われています。
77歳となられた現在は現役を引退されて、人々に走ることの喜びや楽しさを伝えるべく全国を走り回っておられます。今は自分の好きなペースでゆっくりのんびりと走って、走りながら山や海の風景を眺めたり、鳥のさえずりや波の音を聞いたりしながら「五感で楽しむランニング」を人々に伝えているそうですが、現役時代、競技としてマラソンと向き合っていた時は、走ることが楽しい、面白いと感じたことは一度も無く、苦痛でしかなかったそうです。
君原さんはマラソンの大会に出場して走っていると、毎回もう辛くて辛くて途中でやめたい、棄権してしまいたいと必ず思うそうです。オリンピックに出場するような選手でもそのように挫けそうになるのですから、マラソンというのは本当に過酷な競技なのだなと思いますが、そんなとき君原さんは、ある方法を取っているそうです。
辛くて辛くて仕方がないが、「ゴールまで頑張ろう」という目標ではゴールが遠すぎて、とてもじゃないが心が持たない。
だから「あと5キロだけ頑張ろう」と自分に言い聞かせる。
それでも辛ければ、「あと1キロ頑張ろう」「あと500メートル頑張ろう」と、どんどん目標を小さくし、身近なところに目標を据えて走るそうです。
そして最終的には「あの電柱まで頑張ろう。あの電柱まで行ったらもうやめてしまおう」と言い聞かせ、実際にその電柱までたどり着くと、次の電柱を見て「やっぱりもうひとつ先のあの電柱まで走ろう。あそこまで行ったら今度こそ本当にやめよう」と言い聞かせて走る。
そういうことを繰り返して「次の電柱」という小さなゴールを積み重ねていくうちに、いつの間にか42.195キロという距離を完走できるのだそうです。
君原さんは現役時代、通算54回マラソンに出場していますが、途中棄権をしたことは一度もありません。
身近なところに目標を置き、小さな事でも良いので、出来ることからひとつひとつ積み重ねていく。私たちもここから生きるヒントを得られるような気が致します。
そして何より、一度走り始めたらどんなに苦しくてもゴールまで走りきるという君原さんの強い精神力を私たちも見習いたいものです。
日蓮聖人は、『随自意御書』という書物の一節に於いて、
「一滴のわずかな露も集まればやがて河となる。河も集まると大きな海となる。小さな塵も積もれば山となり、山も重なると須弥山のような巨大な山となる。これと同様に、小さな事でも積み重ねると大きな事となるのである。」と仰っておられます。
大きな目標を持つのは素晴らしいことですが、漠然と目標を掲げるだけではいつまで経っても叶いません。その目標達成に向けて今自分が出来ること、目の前の小さな目標を一つ一つ達成していくことが何よりの近道なのではないでしょうか。

テーマ:
「手」
 
素手で握ったおにぎりは人を健康にする。
手には身体に害を及ぼすバイ菌がいるから不潔、不衛生と感じる人もいるだろう。人間は、無菌状態の母親の体内から生まれてくるが、生後1年半の間に保有する腸内細菌の種類が決まる。種類の多い方が色んな病気に対応できる健康な身体となる。大人は腸内細菌の種類を増やすことが出来ない。私達の手のひらには目に見えない細菌が数百~数千個いる。その中には私達の健康増進に貢献してくれる乳酸菌などの善玉菌もいる。「石鹸でゴシゴシ洗うと善玉菌まで死んでしまうから私は水だけで手洗いをしている。素手で握ったおにぎりを食べる事で善玉菌を体内に取り込むことが出来る。」と医学博士 藤田絋一郎さんは言う。料理研究家の女性もおにぎりを握る時は粗塩で優しく指と指の間まで丁寧に洗うとのこと。目に見えない細菌と人間は密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っている。私達は目に見えないが故に気づかないが、この世のすべての存在が全部そうである。これを法華経の教えをあらわす代表的な言葉で諸法実相(もののすべての存在の真実のすがた)という。そのあり様をありのままに受け止めるのが仏様。私達はお題目を唱える事で仏様の功徳を頂戴しそれが見えてくる。私達のまわりには目には見えないお蔭様で溢れている。
手のひらにいる善玉菌に感謝し合掌し、お題目をお唱えしてみてはいかがでしょうか。
但し特に夏、握ったおにぎりはなるべく早く食すのが肝要なようです。
合掌

テーマ:
なぜ人を殺してはいけないのか
 
「なぜ人を殺してはいけないのか」という中学生の問いかけが大変な問題になり、話題になりました。雑誌は特集を組み、各界の有識者が慌てふためいたように答えを用意しました。この問いが意識的に発せられたのか、何げない問いかけだったのかわかりません。また哲学的に宗教的に、ある意味でとても深い問いかけだったのかもしれません。しかし、どちらにしても、なんとも自己本位な問いかけには違いありません。それに特集まで組んで、あらゆる方面からの答えを総動員しなければならないのは、あまりにも命の尊厳さを無視したような異常な殺人事件が頻発しているからでしょう。もちろん、ずっとずっと昔に社会を維持する知恵で、人を殺してはいけないと意志決定した時代があって、決して本能で決めていたわけではないということはわかります。
しかしそれにしても、「殺してはいけないから殺してはいけない」とただ一言で一喝することができなくなってしまっているほどに、今の日本は頭でっかちの冷たい社会になってしまっているのでしょうか。なんともやりきれない空しさ、恐ろしさを感じてしまいます。
仏教では縁を大切にします。縁とはよく網に譬えられます。網はたくさんのロープが繋ぎ合わされてできあがっています。この繋ぎ目の一つひとつが私たちの有りようだということです。繋ぎ目のどこを触っても網全体が動きます。このように、私たち一人ひとりは繋がりあい関係しあって生きていると教えるのです。自己本位とは、この綱の目をズタズタに切りさく作業。それはもちろん困りますが、当然自分自身が一番の被害者になってしまいます。
網全体の存在に十分の注意を払い、そして自分自身を大切にする。これが仏教がいう「生かされて生きる」ということだと、私は受け取っています。

テーマ:
「雨」
今年も梅雨の季節になってきました。
多くの人にとって、雨というのはうっとうしく煩わしいものであろうかと思います。しかし農家など雨を欲する人から見れば恵みの雨なわけで、立場が異なれば見え方は真逆になりますね。
法華経で雨と言ったら、仏さまの教えに譬えられます。教えは雨の如く平等に降り注いでいますが、受け取り手である私たちはそれぞれの器量に従い雨を受け取っている。というのが法華経の三草二木の譬え話です。
受け手の個性を認めた上での平等が、仏教的な平等の見方なのですね。
もし、今受け取れる雨が少ないならば、受けた恵みを糧に大きく成長すれば良いのです。大切なことは無理やり受け取ろうとしないで素直に吸収することではないでしょうか。
これは仏さまの教えに限ったことではありません。親からの注意、上司からのアドバイス、友人からの助言、斜に構えていたら全部流れ落ちちてしまいます。今の自分が無理をすることなく、素直に受け止め吸収していきましょう。

テーマ:

「質直意柔軟」

 

先日、何気なく入った本屋でパナソニック(旧松下電器産業)グループの創業者・松下幸之助氏の「道をひらく」という本が目に留まった。
その中にこんな一節があった。
”逆境は尊い。しかしまた順境も尊い。要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に生きることである。謙虚の心を忘れぬことである。
素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚れを生む。逆境、順境そのいずれをも問わぬ。それはそのときのその人に与えられた一つの運命である。ただその境涯に素直に生きるがよい。”
法華経如来寿量品第十六自我偈の中に「質直意柔軟 -質直(しちじき)にして意(こころ)柔軟(にゅうなん)に-」という一句がある。
松下幸之助氏のいう「素直」とはまさに法華経の「質直」である。
自分の目の前に起こる出来事、人、物、すべてのことに対してどこまでも謙虚に素直にいられるかが大事ではないだろうか。
お題目を身に口に心に唱え、その素直さと謙虚さを十分に養おう。


テーマ:
「さくら」
厳しい寒さの冬が過ぎ、いよいよ春がやってきました。
日本の春といえば、やはり桜ではないでしょうか。
日蓮宗の各御寺院さまでも、身延山久遠寺の枝垂れ桜を筆頭に桜の花がきれいに咲き誇っていることと思います。
一気に咲き乱れ、散るときにはパッと散ってしまう仏教的無常観からくる桜の美しさ。うつろいゆくものにこそ私たち日本人は美しさを感じてしまうものです。
「願わはくは 花の下にて春しなむ そのきさらぎの 望月のころ」
この歌は鎌倉時代の歌人・僧侶、西行が詠んだ歌です。
願わくは桜の咲き誇る釈尊の入滅の日、2月15日に死にたいものだ、という意味の句であります。
パッと散る桜と自らの理想を重ね合わせた句なのではないでしょうか。
実際、西行は旧暦の2月16日に亡くなっています。旧暦の2月16日は新暦の平成30年で言いますと4月1日にあたります。ちょうど桜の咲く時期をさしています。
また西行はこんな句も詠んでいます。
「何事のおわしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる」
西行が伊勢神宮に参拝した時に、何が祀ってあるかはわからないが伊勢神宮の神聖な荘厳な雰囲気に日本人的な感動を覚えて詠んだ句であります。
私はこの句を見た時、パッと身延の御廟所を思い浮かべました。
何事がおわしているかはわかっていますが、その雰囲気にかたじけなく思い、いつお参りしても感動してしまいます。日蓮聖人の息吹が感じられるからなのかもしれません。
冒頭述べた桜というものは、美しいときは一瞬で過ぎ去ってしまいます。限りのあるものの象徴といってもいいかもしれません。
命と、限りある時間に関して日蓮聖人は、信者の四条金吾に対してこんな言葉をおっしゃっています。
「百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」
人間として生きることは、かけがえのないもので、一瞬一瞬が大切であります。
そして、そのかけがえのない、限りある命であるからこそ人間性、精神を磨き心の財を積むことが大事なのだということです。
さあ新しい年度となりました。
桜を愛でつつ、心新たに日々を大切に生活していきたいものです。

テーマ:
「方便」
皆さんも『法華経』の方便品第二をお読みになったことがありますか?「嘘も方便」など、ことわざにも登場したりと有名な仏教語です。
「方便」は「真実」の対義語のように仏教では表現されたりしています。「方便」の意味は、真実に辿り着くための手段の意です。つまり、そこに真実性が無ければ「方便」とは呼べないということです。嘘は方便ではないのです。
飽くまで真実に辿り着かせる為の前段階として、用いられるものです。
例えるなら、真実というゴールは100キロ先の旗だけれど、5キロをゴールということにして、少しずつでも向かわせよう。これが方便です。少しずつでも真実に向かっているのです。
いきなり真実を話そうとしても、心が成熟しておらず理解できないから用いられるものです。
先日、精神科に研修に伺った際に、患者の男性が話しかけて来てくれました。
「僕はどうしても同じことを3回言ってしまうんです」「それってどう思いますか?」
さて皆さんならどう返答しますか?
「3回が2回になり、2回が1回になったらとても良いですね」とお答えしました。
すると意外にも「そうですよね」と本人も最初から分かっていた様子でした。
一見寄り添うことにばかり気が取られてしまいがちですが、彼らもまた社会や地域に帰らねばならないのです。
寄り添うようなフリをしていては、本当の思いを伝え損なってしまうのです。
逆に真実を伝えようとする場合、やはり方便を使ってしか、真意を伝えられません。そう、真実は心の中を取り出して見せられる訳ではないので、方便を持ってしか伝えられず、方便にこそ真実が含有されているのです。

テーマ:
「素晴らしいハーモニーを奏でるには」
オーケストラの生演奏を聞きに行かれたことはあるでしょうか。
先日、私も初めて交響楽団のチケットを購入し演奏を聞きに行きました。場の雰囲気もさることながら、その演奏もまた本当に心を揺さぶられるような感動を味わえたひと時でした。
オーケストラでは、弦楽器のバイオリン、ヴィオラをはじめ木管楽器のフルート、クラリネット、オーボエ、金管楽器のトランペット、トロンボーン、打楽器のティンパニ、スネアドラム、マリンバなどの実に多くの楽器がそれぞれのパートを持ち、共に演奏をします。それぞれの楽器が単独で、そのパートだけを演奏していても人を感動させるようなあのオーケストラのハーモニーは生まれません。しかし、すべての楽器が1曲の為に自分のパートの役割をしっかりと果たし演奏することで、素晴らしいハーモニーを奏でる1つの曲となり、人を感動させることができるのです。これこそ、「異体同心」(体の異なる者同士の思いが一つ)ということなのです。
異体同心について日蓮聖人がよく引用される中国の故事があります。それは、牧野の戦い(ぼくやのたたかい)です。牧野の戦いとは、紀元前11世紀の古代中国で、殷の紂王と周の武王の間で行われた戦です。殷の紂王は、暴君として知られ、重税を課し、諫めるものを殺し、先祖を祀るのに生贄として多くの人間を殺したために民衆は殷の支配を嫌うようなりました。その殷の紂王を、倒そうと立ち上がったのが周の武王です。しかし、時の権力者である殷の紂王の勢力は70万騎、対する周の武王の勢力は30万機。誰の目から見ても周の武王の劣勢は否めません。しかし結果的には、兵力の少ない周の武王が勝利を収めました。これは、殷の紂王の兵士は同体異心であり、周の武王の兵士は異体同心であったからの勝利だと日蓮聖人は言われております。
日々の仕事においても目標に向かって異体同心で行うことが、実績を上げ、会社を繁栄させることに繋がるでしょう。私共が今行っている日蓮聖人御降誕800年に向かっての宗門運動も然りです。お上人も檀信徒の皆様も異体同心にして、この運動がより良き社会の礎となるよう精進して参りましょう。

テーマ:

「抱負」

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

年もあけて本年の干支は戌年となりました。
犬といえば人間の良きパートナーです。
ペットをはじめ盲導犬や警察犬など欠かせぬ存在であります。
昨今言われるようになったのは犬を飼う人より、ペットの双璧をなす猫を飼う人が増えたということです。
どちらも可愛らしく、癒されます。

さて猫と犬ですが、どちらも私たち仏教徒にとっては有り難い存在なのを忘れてはいけないエピソードがあります。

さかのぼって西暦680年頃、この時代、唐から海をこえて盛んに経典が輸入されていました。こうした経典を船で運ぶ際、お経典を食べてしまうネズミが問題になっていました。そこで持ち込まれたのが、ネズミからお経典を守ってくれる猫だったのです。(諸説あり)
いわば仏教の守護者とも言えます。

一方、犬はと言えば日蓮宗では白犬伝説が有名ではないでしょうか。
これも諸説あります。
大まかな話では、身延で善智法印が毒を盛った饅頭を日蓮聖人に出したところ、白い犬があらわれ、犬がその毒饅頭を食べて日蓮聖人の身代わりになったというお話。
日蓮聖人はその後、白い犬を大切に弔っておられます。

犬も猫も人間の大切なパートナー。
太古の昔から人間に寄り添って共生してきました。
今年はその戌の年であります。
昨年は災害、動乱の年でした。
こんな時代だからこそ、本年は人に寄り添い、支えとなる年としたいものです。

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス