絵は不思議です。
私は見たままの絵は描きませんので。
心象画というのか、まず花火を描きます。(やすりで削っては、描き、またまた削っては、描き。また削る。・・・・)人物像は少しずつ、描いているうちに、やはり、妻に少しずつ似てくるのか。
横尾忠則が書いているように。
かれは実際の滝に行くよりも、絵葉書の滝に真実があると豪語。数千枚の滝の絵葉書を集めては、滝の絵を描いていました。
このインスピにて、これは私の妻が江差に出かけた時の絵になりました。
有名な世界の観光地に行き観光名物観光食を食べて、飛行機で羽田に戻ってくる人たちのことを「その観光地を喪失してきた人たち」と表現した作家がいます。
ゲーテは、「ある国の本質を知りたければ、その国に行くよりも、まずはその国の文学を読みなさい」と書いています。
ニューヨークに一度も行かずに、ニューヨークの地図を狂ったように好きで、ほぼ暗記して、jazz喫茶などの名前や、どこのビルの裏にあるなどと、ほぼ、丸暗記していた作家もいますね。
要は。
金があるから、あちこち行けばいいというものではないのです。「想像力- imagination」が一番ということです。本質の話。
今は現実として妻が目の前にいてくれます。
遠隔地妻だった時から、私の無意識の魂の袋の中に浸透圧の関連で深く沈み込んでいた妻のimaginationが、
描いているうちに浮かび上がってきます。
似ているとか、似ていないとか、どうでも良いのです。
雰囲気が出ていれば、ありがたやです。essence!!!!
true nature !!!
渡辺淳一の作品の中に金沢の「おわら」の踊りが出てきます。
ある日。
どうしても、金沢のその踊り「おわら」を見てみたいと、いうではありませんか。
妻母と同じく。
妻も、一度言い出すともう絶対に止まりませんから。
金沢に行ってきました。
と言っても、本当のあの独特の笠。不思議な踊り。京都の火祭りの時も思いましたが、現実の見たままのシーンのことはそのまま描きたいとは全く思いません。
花火がドーンと上がり。パチパチと火の粉が落ちる中。
顔を隠した笠の下で静かに静かに、少女たちが「おわら」を踊っていました。 ←勝手な空想imagination.
私はプロでもありませんし。
絵がただ好きなだけの凡人。
だから、絵の中に、無意識の魂の中に浸透されたたくさんのimaginationのコラージュを拾い上げては描いています。
夏。祭り。花火。蛍。涼しい夜風。世界にある「祭り」の本質。男と女。光と陰。月と星。今生きているんだという喜び。
そんなものが出ていれば嬉しいな。
題名「たましひは夜の月にやどる」
油彩
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