岡潔×小林秀雄 「言葉」×「数学」 ふたりの天才の対談のおもしろさ |   心のサプリ (絵のある生活) 

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世界中の数学者がみんな挫折した三つの大難問をたったひとりで解決した天才岡潔。

「本居宣長」で江戸時代の人々の魂に心のタイムマシーンでバイブレーションしながらたどりついた天才小林秀雄。

 

 

 

 

 

 

世界中の数学者がみんな挫折した三つの大難問をたったひとりで、解決した岡潔。
当時、誰もそれをたったひとりの数学者が解決したとは信じなかったという。
西洋人には、東洋人が世界で初めての小説(ドナルドキーンの定義では、100ページ以上の物語が小説である)
をそれこそ、ガルガチュア物語や、デカメロンなどの小説よりも、数百年も前に、たったひとりの日本女性が書き上げたとは絶対に信じないように。・・・・


かたや、小林秀雄。
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本を何冊読んでも、考えるという行為を忘れれば、ただ、頭の中を忙しくしているだけだ。

そのような評論家の昨今、多いことよ。

朝から晩まで本を読み続けて、知識で一杯の知識人が、この本を理解できるとは限らない。

 

小林秀雄は、「言葉」をとことん「考えぬく人」である。愚直に。そこが良いのだ。

岡潔は、「数」をとことん「考えぬく人」である。愚直に。そこが良いのだ。

 

 

 

だからこそ、このふたりが、対談するということ自体が、すごいことなのである。

いわば、考えぬいた人同士の対談だから。「考えるヒント」という本が、小林秀雄にあるけれども、まさに、この対談集は、「「言葉」を考えぬいた人と「数学」を考え抜いた人が、対談しながら、考えることとは何かをさぐった稀少なる本」と言えるかもしれない。

 

 だから、最初から最後まで、ふたりは、お互いにリスペクトを忘れずに、小林は「言葉」という武器を使って、岡潔の「言葉」の本質をとらえようと、さぐっているところが、三流のミステリー小説なんかよりずっと、わくわくするし、岡潔が、「数」の本質、自分の仕事が、どんなものかを、ピカソや、ドストエフスキーや、トルストイなどなどの小林秀雄の作品群にも描かれた人物から、すこしずつ、話しを深めていき、小林秀雄もまた、彼らの本質を語りつつ、岡潔の数学への向かい合い方、考え方の進め方を、深く探っているようにも思えて、またまた、わくわくするのである。

 

間違えてはいけないのは、スマホや、ゲームがおおはやりし、車であちこち走り回り、一日中、ごろごろとテレビのバラエティ番組に笑い、夕日も星も見ることなく、一日中スマホを見ているような現代生活をおくっている、そして、科学というものを妄信して、なんでも合理的に解決して、金と、快楽さへあればそれで満足という人にはこの本は何回読んでもこころに響かないだろうとおもう。

ふたりとも、学者は、もっと尊敬されてもいいのではないかという。私も賛成である。

つまり、「超俗」という分野の人だからであろう。

小林秀雄は、イメージ的にいえば、鎌倉やら、江戸時代など、人々がそれこそ、あたりまえのように神を信仰し、スマホなどはまったくなくても、普通に健康的に生きている時代が好きだったから、その時代へ、魂をバイブレーションさせながら、近づいて行こうとしている。

その時代の人達の魂に近づこうと、日々、言葉の力で、考えぬいてきたひとなのだ。

「本居宣長」もそうして11年もかけて、書かれた本である。

 

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具体的に個人的に好きな箇所は。

◎ひとは極端に何かをやればそれを好きになるという性質を持っている。岡
◎やさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白い。小林。
◎男女関係の醜さを描くピカソそれを無明という。岡
◎自己中心の自己=西洋の「自我」、仏教の「小我」。岡
◎良寛の冬の雨の音が好きだというのは、何度もなんども聞いているうちにそういう働きがでるもの。それは無明を押さえることのできる人のみが可能。岡。
◎坂本繁二郎と、高村光太郎の彫刻こそが美である。岡。

 

 

 小林秀雄氏は、「確信を書いている作家は少ない」と、対談相手の岡潔氏をほめあげる。
 知識や、情報や、仮説を書く人はおおいけれど、「確信」を書く人は少ないと。・・・


 この表現はおもしろいと思った。

 岡潔氏は、遺伝で、人の天才は遺伝しないということをはっきり言い、「愛と信頼と向上心」のみが子供にとって、必要な要素だとも言う。


 考えぬいて超俗世界で、研究して考え抜いた人の思想だと思う。


 子供がまず順番という概念を獲得して、400前後の体の筋肉を総合しながら「たちあがる」ことで、「一」という概念を獲得すると言うところ、まさに、岡潔の「美しいビジョン」だと思う。


 よく「知る」ことと、「わかる」ことは違うと、いわれけれども、その事に近いと思われる。


 ただ、「知る」ことは、今の時代、これだけ情報があふれていると誰でも、できることだけれども、「わかる」とは、誰にでもできることではないし、また、それが、深化して、「肌で理解する」とか、「信じる」という、他の動物にはありえない、人だけに許される新しい次元の範疇にまで、たどりつく人はさらに少ないということだろう。



  鈴木大拙の言うところの、「涅槃」=母親に抱かれた子供、つまり、親と子の間の「愛」と「信頼」はあっても、まだ、未分化で、意識のない状態。
  鈴の音を二回目に聞いた時に、子供がする「何か懐かしいような目をする」、そんなふうにして、子供は「情緒」というものを獲得していく。


  そして、その「情緒」はすべての「文化」の基礎になっているのではないかと、岡潔氏は、言う。



 ここ最近のイスラム国などの残虐なる行為を見ていると、恐らく、子供の頃に、「愛」と「信頼」と「向上心」というものの「情緒」の獲得が、暴力によって、断たれた子供達の、未来を考えてゾッとする。

 


 そこには、もはや、「文化」は芽生えない。