「陰口をきくのはたのしいものだ。
人の噂が出ると、話ははずむものである。
みんな知らず知らずに鬼になる。
よほど、批評はしたいものらしい」
-小林秀雄
誰しもが、口に出さずとも、陰口は心の中でやっているものです。そして、みんな、心の中では、軽い犯罪者です。
それをどう普段の生活の中で、工夫しながら、我慢したり、あるいは、とうとう、相手に直接面と言うのか・・・ そのあたりのことが、その人の「品位」というものだとわたしは思っとります。
日々徘徊。日々実験。日々考える。日々掃除。
小林秀雄三島由紀夫 死ぬまで読み続けます。
●無教養で貧乏で、芋ばかりを食べているような文壇の自然主義という派があり、次に大正にはおぼっちゃん達が白樺派をつくり、これもたいした教養もないのに小説を書いた、そう今は亡き 谷沢永一は言います。
そこに、江戸前の啖呵をきる小林がきた、と。
確かに、小林秀雄のレコードを効くと、茂木健一郎も書いてましたが、実に話しがうまい。落語家のように人をひきこむ。それは、「作者の誠実な実践的な情熱」であると。
「信ずることと知ること」をレコードで聞いていると、涙がでてきます。それほど彼の声と声の勢いはこころに届く。
彼はいう、論理的に文章が正しくないか正しいとかそんなことよりも、人の気持ちを動かすか動かさないかが大事なのだ、と言うのです。
ここに、谷沢は噛み付くが、山本七平は優しく皮肉るのみ。
山本七平は小林秀雄が好きだったと思います。
小林秀雄についての山本さんの著作、小林の好き放題の生き方、つまり、「好きなこと意外はしない」という生き方が、たぶん、山本さんもひかれたのでしょうね。
ある日、小林さんの家に強盗が入って、寝ていた小林さんをたたきおこして、金をくれという。小林秀雄さんは、金などないと言いながら、たんたんとその強盗に話しをしながら、彼独特の落語のような口調で江戸前の啖呵をきりはじめる。
しだいにそれは、強盗に対する説教になり、たぶん、親心溢れた諭しにもなったのでしょう。
最後にはその強盗は、涙しながら、謝罪して帰ったいったという実話です。
また、ある日は、賞品をかけてゴルフをした時、誰かがルールを少しだけ守らずにコースを廻った時に、ほんとうにそれはおかしいと、ひとり子供のようにダダをこねて遂には景品をせしめたという。
皆これに感銘してしまう!!!。
妥協という言葉が彼の辞書にはないようなのです。
小林さんの子供のような邪気のない心は、好きなことにのみ惹かれ、好きなことのみやり、好きなことで生活をしてきた「大人」であり、こんな人はもう今の文壇には誰もいないのです。
三島由紀夫氏が死んだ時に、澁澤龍彦ががっかりし、稲垣足穂氏が死んだ時には、松岡正剛ががっかりしたように、小林秀雄氏が死んだ時には、文学界みんなが、がっかりしました。
同時に、小林さんに書いたものを読まれるという恐いものを失って、書くレベルがどんどん落ちて行ったそんな気がしています。
怖い人は必要なんですね。どこの世界でも。