昔にラテン文学について、書いた自分の日記があったので、ここに記録しておきます。 中上健次   |   心のサプリ (絵のある生活) 

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ラテンからやってきた友達のMさんと。

 チャットしてたら、1時を過ぎ、めったにそんなに遅く起きてはいないので、寝落ちしました。

  ふと。

 昔にラテン文学について、書いた自分の日記があったので、ここに記録しておきます。

中上健次   「アメリカ・アメリカ」

 ホルヘ・ルイス・ボルヘス

ラテン系の作家は、良い意味でホラ吹きと言われている。幻想的で非現実なことが多く描かれる。<百年の孤独がドンキホーテと言われる所以>

今、私は、土地と水と風と空気、それと音楽と料理と、作品の関係がおもしろく愉しいので、そんな風にしてラテン系のものを取り込んでいるのですが、このボルヘスと中上健次の対談も刺激的だ。

まず、ボルヘスは1899年のアルゼンチン生まれ。

この中上健次の対談二年後に亡くなっておりました。

この対談でおもしろかったのは、あまり二人の話が噛み合っていませんでしたが、かたや、マッチョで坂口安吾に比される戦闘派、かたや古代ケルト文学を愛する盲目の詩人ですから。

 中上も調子にのりすぎたのか、芭蕉まで批判する始末。

 日本の歴史が短いと言うと、ボルヘスの秘書兼二年後に彼の妻となるマリア・コダマさんに、「ヨーロッパにまだ文学が確立されていない時にすでに平安時代日本には源氏物語があった」とアドバイスを受ける。

 このあたりは不勉強だなという印象。

 日本文学で三島以後の最も重要な作家と言われているが、とボルヘスが少し世辞を言うが、やはり、噛みあわない印象。

 中上の本質は小説の中に凝縮された彼のpassionにあるので、現実の生の彼の言動は人生の最後の余韻を楽しみながら詩について考える作家とは、平行のままだ。

 ボルヘス「日本に、四年前に来た時と同じ印象です。人々がとても幸せで、ここには幸福というものがあるような気がします」

 中上「それはアルゼンチンにあるような熱狂がないということですか」

 ボルヘス「それは言えるかもしれません。私はもう老いていますから熱狂よりもこういう穏やかさのほうを好みます。マリアが書いていますが、古代ギリシャ人は、神々に自分を熱狂から解放してくれるように祈ったということです。フライ・ルイ・デ・レオン」という詩人の詩にこんなのがあります。<暗唱する>

 吾は欲す

 己とともに生きんことを

 天が与えし善を享楽し

 見るものもなく、ただひとり

 愛から、嫉妬から、憎悪から、希望から

 逃れ、生きんことを

 中上「ボルヘスさんはお年を召されてから、いまとりあえず熱狂から解放されたいと思われているのでしょうか?たとえば、ダダですとか、青春期にはあの時代の熱狂に触れてこられたわけですよね」

 ボルヘス「それはもう私に対する侮辱です。笑。なにしろ私はダダイズムというのが大嫌いですからね。笑」

 とまあ、対談はこんなようにして続くのだが、この通訳をしているのが日系アルゼンチン系のマリア・コダマさん。

 三島由紀夫についてはボルヘスもマリアも尊敬していて、マリアさんは彼の著作はすべて読んでいると。

 特に、「豊饒の海」と「仮面の告白」はマリアさんが盲目のボルヘスのために、読んで聞かせたらしい。

 ペロンの政治が大嫌いなために、<家族に対する仕打ちや自分に対するそれについての憎悪から>ボルヘスはペロン後の独裁政権を絶賛したためにノーベル賞の候補を何回も受けながら結局受賞できない理由になったと資料にある。

 ここで、ボルヘスが嬉しいことに、日本の俳句に深い理解を示していてこんなことをのべた。

 最後に記しておきたい。

 「たとえば、英語で物語(テール)というのは、鐘を何回も鳴らすときや、数珠を数えるときにも使う言葉です。

 日本の俳句というのは、"瞬間"のものですね。たとえば、永遠につながる瞬間のものだと思います。そこには何の持続性もありません。そういう意味で、俳句は物語の対極にあると言えるものではないでしょうか?」

 深くて、感銘します。

 ユダア人とイギリス人の血が流れる父親の血筋を誇りとしたボルヘスは、謙虚にこんなことも言っておりました。

 「私は怠け者ですからね。読むのも書くのも短編とか詩のようなものが好きです」

 ボルヘスは、中上がタンゴが大好きなんですと言う返事に、私はほとんど聞きませんと返答。 ←笑えるな。

 最後まで、平行線の笑える対談でした。

 ネット時代。

 世界は変化進化し続けています。

 日本は世界のどこの国と比較しても、平和だということの、

 幸福を忘れています。

 平和ボケ。

 自分の国は自分たちで守り、幸福な国を維持していく。そう思います。

資料A

父が目の手術を受けるため、1914年に一家でスイスのジュネーヴに移住。カルヴァン高校に学ぶボルヘスはバカロレアを取ったが、大学には進学しなかった。第一次世界大戦後、1919年に一家そろってスペインのバルセロナへ移住。ここで当時の前衛文学運動・ウルトライスモに参加。セビリャ在住を経て、1921年、ブエノスアイレスに帰郷。1923年、処女詩集『ブエノスアイレスの熱狂』を発表。