アン・サリバン先生が、ヘレン・ケラーにwater という字を、 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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アン・サリバン先生が、ヘレン・ケラーにwater という字を、水道の水が彼女の手に勢い良くながれてそそがれているときに、最初はゆっくり、そして次は手早く、指文字で書いた時、

 彼女ののちの自伝で、「なにかわすれていたものを思い出すような」「神秘な自覚」を感じたと書いています。

 映画「奇跡の人」でもこの有名なるシーンは感動的でした。

 「なにかわすれていたものを思い出すような」「神秘な自覚」

 日本の井深大 氏なども、ゼロ歳児など、幼少期の教育が大事と書いていますし、普通は、三つ子の魂百までも・・と言いますね。

 しかしながら、もともと言葉をはやく言えたというヘレンケラーが、耳・目・口が聞けないという三重苦になったのは、19ヶ月目。

  そしてアン・サリバン先生に会ったのは七歳。

  七歳からでも、ここかしこに皿を投げたり、日々狂ったように暴れ回っていたひとりの猿のような少女が、天才的な教育家のサリバン先生と会うことで、 「なにかわすれていたものを思い出すような」「神秘な自覚」などを感じることができるようになる。

  それからは、ヘレン・ケラーは、光を見出したと書いています。

  ここからは、彼女の言葉でいえば、「一生を縮めてたった一日だけの命で暮らす昆虫」のように、生きたのですね。

  彼女の伝記などを読むと、大学にも、サリバン先生がつきっきりで指文字でつきそっておりましたが、一分間に80文字といいますから、けっこうすごいスピードです。

  家にもどり、それを点字にしたり、膨大なる大学の全行程を獲得するための彼女の努力は、言葉では言い表されないほどの質と量だったでしょう。

  そして、その意欲と実行は、ある意味、彼女がいわゆる目や耳や口などに、わずらわされずに、熱狂的に集中して勉学していったからだと思います。

  彼女についていつも考える時、人はある意味、盲目になった時に、別の潜在的な力が人からわきでてくるのだろうかということ・・・

  彼女はイエスと書いています。

「宇宙の無限の驚異は、それを受け取る側の能力に比例して、わたしたちに啓示される」と。

 そして、ヘレン・ケラーはもしも明日で目が見えなくなるということを日々感じながら目を有効に使ってくださいね、という。

  思わず眼鏡を拭いてしまう。泣けるじゃないですか。

 彼女のことを感動を持って考えること、これはsnsなんか、比較にならないくらいの重みを持っていますし、今の若いママたちにも、ぜひ見てもらいたい映画です。

 パリの、パラリンピック・・・楽しみにしながら。想像しています。

彼らの困難との戦いを。

ヘレン・ケラーの本をまた引っ張り出してきて・・・・・

「奇跡の人」は何回も見ました。傑作です。

亡き母は神戸でヘレンケラーと握手したことを死ぬまで自慢していました。

 彼女の自伝。

 スウェーデンボルグの言葉について書いています。

 目が見えず、

 口が聞けず、

 耳が聞こえない・・・ いわゆる三重苦。

 サリバン先生がいなければ、とうぜん有名なるヘレン・ケラーはいなかったでしょう。

 そして、サリバン先生とヘレン・ケラーを心から愛したヴォルタ寄金のヒッツ氏。

 ヒッツ氏は心臓の病気でヘレンケラーの手をにぎったまま亡くなりましたが、いわゆる聾唖者寄金の代表として、ヘレンケラーの読みたいと思われた本をすべて点字に翻訳して、彼女にプレゼントしていたということです。

 ゴッホとテオを想起するまでもなく、この世のすべての人は、だれかのヘルプによって上昇することができているわけですね。

 ひとりの力はたいしたものではありません。

 それにしても、ヘレン・ケラーの好奇心、知的向上心には頭がさがります。

 昔の音楽家は、月の光で楽譜を写したとか、日本でも、雪の光で本を読んだとか、言いますが、これはたぶん、各地で向上心のある人達がやっていたことが、象徴的に言葉や言い伝えや詩になっているのでしょう。

 政治について、細かなことを、あれこれ言う人がいますね。

 もともと、政治がこの世界を変化させることはできません。!!!!

これは私の信念です。

 この世を変えて行くのはひとりひとりの意識、魂しかありませんから。

 政治はそのお手伝いみたいなものです。

 人の意識がどこから生まれたのか?

かつての原始の時代は、まだ言葉がない時代、人が動物のようにあちこち動き回っていた頃、右脳にひらめいた「なにか」はたぶん神の声として聞こえたでしょう。

  左脳がしだいに、人類の文化をつくりあげていくわけですが、右脳の存在もまた忘れてはいけませんね。

 年をとると、実は左脳は力が衰えてきます。

 物忘れがひどくなり、記憶が衰えます。

 いわゆる知性は、量としては若い人にはかなわなくなるでしょう。

 特に、メモリーの大きさと、その回転速度については。

 でも、年をとると、右脳を発達させることはできると思います。

 何かというと、涙もろくなり、情動が敏感になります。

 それは、死が近くなるので、そうなるのかもしれません。

 小林秀雄氏が、「最近、目にうつる自然がこんなに生き生きと美しいのはなんなんだ」と、書いているのはその年齢のことですね。

  本能。

  これが年をとると、それをきちんと大切にしている人は、良き生命力として、頭をだしてくるでしょう。

 余計なものが削れてきます。

 そこをうまく処理できる人は、きれいな年の取り方が出来るのだと思います。

 あとは、ヘレンケラーのように、余計なものが見えたり聞こえたり語る必要がない女性には、

 たぶん、人の感じ得ない、霊能者がその直感でとらえるような「本質的な力」を、いつも、感じることができたのではないでしょうか。

  渡辺昇一氏が書いていますが、西洋でも、東洋でも、「一日何もしゃべらない」行為を聖なる行為として実践している国はたくさんあります。

  おしゃべりは、やはり、何かを喪失するのだと思います。

  静かに、静寂の中、こころの深いところ、ひょっとして魂と呼ばれる井戸までおりていき、その「声」を聴く、そんな時間だと思います。

  音楽。

 特に、バッハの音楽は、かたちを変えたひとつの静寂なのかもしれません。

 音楽、静寂、音楽、静寂。

 まさに、サウナで、水、高温、水、高温という繰り返しの中で、感覚が変容していくような。

 日本刀が、火、冷水、火、冷水、という繰り返しの中で、その強さと輝きを増して行くような。

  今日もまた、音楽と静寂とともに、幕がおりようとしています。

  感謝。

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