アホでハンカクサイ、変人な僕の新人時代 (ボケ防止の青春備忘録) 旭川時代
旭川での新人時代。1975年。
家に仕送りを強制的に30000円せねば。
靴とスーツを先輩に買えと言われて、ローンで、買いました。
手取りで、80000円くらいの初任給。懐かしいです。
副店長と同期の体重100キロの男と、しごとがおわると、旭川の今はもう寂れていますが、
サンロク街にノコノコと。
当時はまだまだストリップなるものがありました。
今はもう日本中ないですね。
定食屋にまず入り、ビールと、ちょっとしたつまみと、ご飯を食べて、500円。
それから、三人で、8時までに入れば、ビール飲み放題の「ホリディインブラウン」という店まで、必死で、走る走る。。笑。
いぶくろがポチヤポチャ。それでも、若いから、なんとか20分前くらいまでに飛び込み、ビールをまず三本頼みます。
そのうち、二本は机の下に隠して、また三本頼みます。それを繰り返して、睨まれていた悪ガキ三人組でした。
旭川は、良い男たちはみんな、当時、札幌へ行ってしまって、残るのは女子ばかり。
ですので、二次会のそのダンスホールには、綺麗な女の子ばかり、80パーセントから90パーセントは、女子でしたね。
だから、ダンスを申し込むと全く断られることがありません。
ニコニコして、踊る曲は、おきまりのダンスチーク曲。
メリージェーン。
ディスコといっても、都会の踊り狂うダンスというよりも、盆踊りみたいに、足のステップが決まっとるわけですから。
わたしは学生時代に暗い青春を送ってて、まだまだ叱られてばかりの「いつ やめてもいいような 悩み」を抱えていましたが、この ダンスをする汗の素晴らしさを発見、はまりました。
小さな頃に、親がラジオをかけたら、マンボのうっという 声に 反応していたということを亡き母から聞いていましたので。
もう仕事のことを忘れ、自分の暗い青春を忘れ、何もかも忘れて、頭を空っぽにして、踊る楽しみ。
ステップを毎日行っては、覚えてしまったので、ある日、後ろを見ると、20人くらいの女子が、わたしの足のステップに合わせて、踊っているではありませんか。じっと足を見られていることを感じました。 いやあ、嬉しいような、焦るような。
それでも、あの時の曲目とダンスは今でも忘れられません。
21歳。早生まれ。
ソウル・ドラキュラ。
ソウル・フランケンシュタイン。
こればっか。
あとは、店長が社交ダンスが上手だったので、マンボに、ドドンパに、ジルバ。
それから、札幌ではシック。おしゃれフリークです。
Boogie Oogie Oogie
こんなことを68のジジーがいうと、若い人が怒るかもしれませんが。
クラブのあの自由な踊りより、一体感がありました。
今、この時代の盆踊り的ダンスが見直されています。
そりゃあそうでしょう。
ただでさへ、ヒステリー社会。
誰も、本音を隠して、慎重な話ばっか。
そんな時に、思いっきり、踊りまくった時代のことを
思い出しては、ヘミングウェイではありませんが、旅をしなさい、あなたが旅をしなければ、年老いてから 子供達に 何を語るのか、と。
旅。
それはいろいろあります。
三島由紀夫は、「世界を旅すること」それが青春の証だ。そう書いています。
世界。
本の世界、実際の本当の旅、ヒッチハイク、山登り、異性の世界、絵の世界、artの世界、スポーツの世界、outdoorの世界、料理の世界。
いろいろあると思います。
とにかく、旅をしなければ、それは生きたことにはならないのではないか、⇦自分は何もしたくない、そんな生き方もあると思います。あくまでもこれは個人わたしの考え方です。
話が飛びました。
旭川のディスコの続き。
2時ごろになると、警察が、チェックしにきます。
あたりが一面に明るくなって、要は不良が増えないように、定期的にくるわけですが、
みんな席にすぐに戻って、平気な顔で上品に酒を飲んでいます。
ただ、しらけるので、それから、三次会。
居酒屋に、知り合ったばかり女の子どうしと、こちらも二人、合計四人で、まだ23歳だというのに、クソ生意気な我々は、人生論なんかを語り出すわけです。
まだまだ、エイズもなく、コロナもなく、ただただ大氷河時代。みんな銀行とかJRで真面目に事務をしていた時に、わたしは踊り狂ってたわけです。^^
ああ、この貯金もしない、21歳のアホ。仕送りだけ3万したら、あとは、全部ディスコと食事。当時は、休日が月に一度しかありませんでしたが、旭川店の時のみ、夜が早く、終わりました。 そして、当時は、年末に、お金をボーナスとしてくれるのでした。年に3回のボーナスです。全部使いきりました。思い残すことはありません。二人の妻にも、全部の貯金と、一人の子供に50000円。二人で100000円。13年間。一月も欠かさずに、送りました。
あとで、日本では養育費も払わない人が八割と聞きました。
コロナで、離婚した女子が手当をもらえないというのも、納得。これは日本男子の堕落です。
うちの先輩店長のの名言。
「三時まで飲んだら翌日の数字は300万」「4時まで飲んだら翌日は400万やらないと、夜遅くまで、飲む資格はない!!!」と、よく説教されましたから。
翌日は、絶対に遅刻はしない、数字は作る、と必死に働きましたね。
おかげで、当時6店舗しかなかった会社は、160店舗まで2-3年でいきました。会社は一つしか受けずに、本好きな専務のおかげで、入社できました。 最初の赴任地が札幌西武、次が苫小牧ダイエーサンプラザ、次が、札幌のパルコ、それから、北海道のマネージャー、函館、帯広、が担当でしたが、必ず、一次会のあとは、ここ北海道は寒いですから、雪の中をみんなで、二次会のディスコ盆踊り、これが当時のフツーの北海道の空気でした。カラオケなんかない時代。スマホもない、ゲームもない、何もないけれど、人と人の喜怒哀楽義理人情がまだあったんだろうなあ。
なつかしき、まさに、若さの力です。
若さとはある意味、バカさ、なんですが、それを経験した人は、いつまでも、パッションを失いません。
威張らず、名誉とか地位とか、持ち出さず、頑固ではありません。
わたしも、そんな、いつも裸で、子供を愛した、良寛さんみたいな人が好きです。