ラテン的生き方 発想「その2」 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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ラテン的生き方 発想「その2」




自分でつくったたらこは、どうして市販されているようなあじにならないのだろうか?
自分でつくった「タバスコ」はどうして市は版されているようなタバスコにならないのだろうか。

自分でつくった「イカ塩辛」は市版されているようにできないのか?














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よみがえれ、バサラの精神―今、何が、日本人には必要なのか? (PHP文庫)/PHP研究所

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こんなくだらないことを考えていた。ある日、愛好するグールドのバッハを聞いていて、はっと気がついた。
「あああ、グールドのCD好き、演奏会嫌いは有名だけれども、何もCDの「完璧な音」だけが、良き音というわけではない。

そりゃあ、アンプなどの配線に数十万の金を使うマニアはともかく、普通の人にとっては、音質も大事だけれども、感動が大事なのだ。


ということは。



今は発売禁止になったけれども、カスピ海のヨーグルトを何回つくっても、違うあじになるし、つくる家によっても違うヨーグルトのあじになるというのもよく理解できる。
いいではないか、違う家によって違う家に違うヨーグルトができる。


人は、雑菌と共生しているのだから、そんなことは当然なこと。







完璧さを一番にする、日本人の悪いところ。
完璧さを一番にする、日本人のすごいところ。





自分でつくったたらこは、少し生の味がするけれども、最後に蝦夷ニンニクの醤油漬けなんかを少しつけると最高の味になるし、
「イカのはらわた」も、潮加減を薄くできるのも素晴しいことだろう。
たしかに、市販の塩辛は美味いけれども、塩分の強さと言ったら、・・・毒を食しているみたいなものだろう。糖尿になりたくなかったら、自分でつくるのが一番。市販の味なんかをお手本にすることはない。
ガラス瓶の裏に張ってあるデーターを見てみて下さい。
おそろしいほどの、調味料やら、薬やら、赤黄色緑などの色番号。





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というわけで。

日本人は、もっとラテン系の人を見習うべきだと思う。
どうせ、真面目で、律儀で、文化歴史の長い日本人には、いくらマネをしてもラテン系になぞ、なれるわけがないのだから、少しでも、マネのふりをするだけでも気持ちがちょっと楽になる。




ケセラセラ。
小さなことにくよくよしない。

他人の気持ちを自分勝手に推量しすぎずに、スキンシップで、ほめたたえる。


家族や、子どもや、兄弟親戚もそうだろう。
なにかにつけては、吉本漫才のマネみたいな空のもりあげなんかはやめて、、静かに、話しをおたがいに聞くようにするだけでも、違う心のあり方が産まれることだろう。


そして、気が向けば、踊ったり歌ったりすればよいのだ。




不思議なところで、この北海道。
二次会は昔から、ディスコ。
札幌には「アダムとイヴ」というデカいディスコがあって、かっこ良かった。
毎週のように遊びに言っていた。











「サルサ」この映画、リベルタンゴが良し。





「ラテンに学ぶ幸せな生き方 (講談社+α新書)/講談社」にはおもしろいヒントがたくさんある。
特に、完璧主義の日本人には、ちょうど良い心のサプリかもしれない。


◎格差や、貧富の差はどこにでも、どこの国でもある。
哀しむより楽しむようにする。

◎金がないから、助け合う。金のある奴は意外にケチなもの。ない人ほど、他人にほどこすことができる。
◎別れた相手をけっしてけなさない。
 人として自分という人生の縁のなかに一度は組み込まれたわけだから、他人のわけははない。
 感謝と、褒めの言葉で、認める。



金なんかなくとも、服装なんかどうであろうと、今ここの瞬間に「踊り」を通じて、永遠を感じるというのは、なにやら、禅にも通じるような気もする。



Chic - Le Freak



 今から、35年前か、日本中でディスコがおおはやり。
 クラブのように閉鎖的な踊りではなく、もはや、盆踊りのように、 老若男女が、
 みんな、同じステップでおどりまくるのだ。

 真夜中の三時頃になると、かならず、パトカーの威嚇があったけれども、きにせずに、よく踊りまくっていた。

 旭川。26歳の頃に、年上の女性たしか、33ぐらいのXという女性がいた。ディスコで出会った女性だったとたしか、記憶している。
 
 
 私自身がまだまだ人生のい・ろ・は・しか知らない頃であったから、彼女からはいろいろなことを教えてもらえた。
 
 特に、ジャズの名盤、そして今何が流行っているのか、それから旭川といってもまだまだ田舎の街の中に、女特有の嗜好でジャズと料理の美味い店をよく知っていて連れて行ってもらった。
人柄が明るいので、どこの店に行っても、マスターやママが良くしてくれた。


ああ、こうやって、みんな小さな町でも人生を楽しんでいるんだ・・・人生を遊ぶことの下手な、糞真面目な私はそんなバカなことを思いながら、ウィスキーのストレートを思い切り喉にながしこむ。




 

 
 ただ、私はどちらかというと、人見知りが激しくお店に行くと、そこのマスターやママと楽しく話しあうことよりも、ひとり雰囲気を楽しむ方なので、逆に一緒に連れて行く女性は彼女のような「社交的な大人の女性」の方が、楽なのである。


  
 彼女はいつも洋服はアカルく大きなデザインの柄の花や鳥を好んだ。赤や黄色やトルコブルーのようなはっきりした色彩がよく目鼻立ちのはっきりした顔にあった。
 


 「huruhonさん、がんばりなさい。あんたは絶対ものになるわ」
 と、今でも、懐かしく彼女の独特の励ましを思い出す。
 (まだまだ、私はこの言葉をあきらめていないから・・・笑えますね・)
 
 

現実から逃避しない強さとユーモアが彼女の魅力であった。


 彼女は五木寛之を読み瀬戸内晴美をその時読んでいた。今ならば村上春樹を読むようなそんな不易と流行の、「流行」という言葉がよく似合う打ち上げ花火のような女だった。
 
 ある時。吹雪いていた日だったと思う。



 
 遊び仲間と旭川の汚いビルの七階で何かのプロジェクトの打ち上げをしていて、さっきも書いたように、昭和五十五年頃の北海道の遊び方は皆二次会では皆、ほぼ、ディスコで踊るのである。(上手く踊る必要がないので楽でもあった。)



  その少し東京のしゃれたバーをイメージした狭い室内に少しの踊り場があり、そこで皆で我々は、仕事の成功のせいで、少し陽気になりすぎて、踊っていた。


 気がつくと目の前に帽子をかぶった二十代の身長のでかい男が異常な手振り身振りで私の前で踊り始めた。今から思えばからかわれたと思うのだが、まだ青くてつっぱりの性格の私はその帽子を二メートルほど手ではじきとばした。


彼がけっそうをかえて、私に殴りかかったきた。
 
 

 面倒になるのも嫌だったし、私はひょいと逃げるのは得意なので、その馬面の男に、馬鹿やろうと叫んだ後、帰るぞとばかり皆を誘い、エスカレーターで逃げ出した。


その時、我がグループの仲間の中に相撲取り志望の男の子がひとりいて彼の塞き止めをかってやったくれたのだ。チンピラ相手に全然顔色ひとつ変えずに、彼は塞き止めをしてくれた。
 (一緒に麻雀をやったり、素晴しい性格の良き男だった。もしも、あの時に、あの男がいなければ、もつと大きな騒ぎになっていただろう。)
 
 二分後に仲間のチンピラ数人が階段から上がってきた時には、相撲取り志望の彼はその帽子の男をおとなしくさせ、見事全員逃げることに成功していた。
 
 



数日後。

あとでそこのマスターにそのチンピラのことを聞いたのだが、私もけんかっぱやいので、説教されたことを今思い出す。ちょいとまちがえたら、刺されてたぞとも、脅された。若気のいたりである。



 
 Xはその夜とっておきのバーボンを出してくれて、「怪我などはないか」と心配してくれ、馬鹿な私のその喧嘩の一部始終を黙って聞いてくれ、照明のよく計算された女性がひとりで住むのには少し大きめの部屋で、「ミドル・マン」ボズ・スキャッグスの「ジョジョ」のレコードをかけてくれた。
 
 その夜、音楽とウィスキーと喧嘩の三位一体で、青二才の私は、生まれて初めて大人の空気を思い切り吸い込んだのだった。



 
 正直いって、「男も女によってつくられる」のではないだろうか。「女が男によってつくられる」ように。Xの部屋で聞いた、特に名曲でもないけれど、女性のセンスで部屋の雰囲気を良くしたいという「インテリア」感覚で選ばれた曲もなかなか悪くはないなあ、と私はバーボンを舌で味わいながら感じた。
 
 芸術に対する彼女の興味と好奇心は私を更に刺激したのである。

 今でも、ボズ・スキャッグスの「ミドルマン」と、グローバーワシントンの、「ワインライト」を聞く特に切なく彼女を思い出す。


Grover Washington, Jr. Winelight ( Full Album )

 

 

 

 

 
 今は風のうわさで、ハンサムな年下の彼氏と仲良く暮らしていると聞いているのでいつまでもおしゃれな女性でいてもらいたい。
 


1944年オハイオ州生まれ。少年時代をテキサス州で過ごす。12歳のときにギターを始め、セント・マークス・スクールでスティーヴ・ミラーと出会う。彼にギターを習いながらヴォーカリストとしてバンド活動を始めた。2人は共にウィスコンシン大学に進み、大学時代もブルース・バンドを組んだ。
1960年代前半、白人によるリズム&ブルースが盛んだったイギリスのロンドンへ渡る。いくつかのバンドでプレイした後、ソロとしてヨーロッパを遠征中スウェーデンのポリドール・レコードの目にとまり、1965年にデビュー作『ボズ』を発表する。
帰国後、サンフランシスコを拠点に活動し、スティーヴ・ミラー・バンドのファースト・アルバムに参加。これで評価を得たボズは、1969年にアトランティック・レコードからアメリカでのデビューを果たすが、しばらくはセールスに恵まれなかった。
R&B色が濃い音楽を発表し続けていたボズであったが、1976年、ファンキーでクロスオーバー的な洗練されたサウンドの『シルク・ディグリーズ』を発表。これが全米2位を記録し、500万枚以上を売り上げた。アルバムからも「ロウ・ダウン」(全米第3位)、AORのスタンダード曲「ウィ・アー・オール・アローン」の大ヒットを放つ(このアルバムに参加したセッション・ミュージシャンたちは、後にTOTOを結成)。次作の『ダウン・トゥ・ゼン・レフト』、『ミドル・マン』も続いてヒットした。
1980年に、トヨタ・クレスタの初代モデルのCMソングに、『You Can Have Me Anytime』(邦題:『トワイライト ハイウェイ』)が採用された。
その後、ヒットチャートからはしばらく遠ざかっていたが、1988年発表のアルバム『アザー・ロード』の収録曲「Heart of Mine」が、そのミュージック・ビデオの効果もあり、翌1989年に大ヒット、カムバックを果たした。日本では未だに根強い人気を誇っている。
 







  「映画からたくさん愛をもらってください」  淀川長治