中野の居酒屋で・・・23歳の思い出   セガンティーニ |   心のサプリ (絵のある生活) 

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「「あなたは画家ならば誰が好き?」と聞かれ、私は「いろいろいるが、今はセガンティーニ」と言ったのです。すると、彼の目が今でもはっきり覚えていますが、「いやあこんなところでセガンティーニが好きな方にお見えかかるなんて嬉しい」と彼は握手を求めてくるではありませんか。」

       中野の居酒屋で・・・23歳の思い出

 

 

 

 

セガンティーニ。好きです。思い出もあります。

彼の本物の作品を上野美術館で数年前に見ました。

 

ふくやま美術館蔵でしたか、「婦人像」

こころのサプリ    アフォリズム=箴言集-img122.jpg



 渋くてまだ彼が世紀末的な雰囲気なスタイルに達する以前の若い時の作品なのでそのデッサンのすごさや色彩の探求にひかれます。なにやらこの暗い雰囲気はジョイスのダブリン市民の「姉妹」の部屋の蝋燭を連想させますね。宗教のある国の作品です。
 
 

 セガンテイーニの私の大好きな作品のひとつ、「嬰児殺し」を描いた作家で、まさかここで出会えるとは思っておりませんでしたので、いやあ嬉しかったです。

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 この作家については、不思議な思い出があります。1977年の美術手帳を買った時にあまりにもその表紙が美しい油絵だったので、当時23歳だった社会人になったばかりの私はいつも会社からもどるとその美術手帳にくいいるように見とれておりました。

 


 まだまだ社会にも慣れず、いつも会社からもどるとヘトヘトで、足が棒のようになり、風呂に入るとあとは本も読んでいるうちに寝てしまうという日々ですから、絵画を見るという楽しみは時間も短くてすみますし、深くこころにしみ入るものです。

 

 

 

 

 


 <33年前の美術手帳は今でも手元にありますがまっぷたつに割れておりボロボロですが私の大切な一冊の書物ですね
 

こころのサプリ    アフォリズム=箴言集-img121.jpg

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 そんなある日、社会人になってから、3年程して出張がいろいろあるような立場になり、中野の駅の近くの居酒屋でひとりビールとつまみでちびちびやっておりました。

 


 横となりのおにいさんが、やはりひとりでじいっと考え事をしておりました。
 私も孤独を楽しんでおりましたが、そのうちにそのお兄さんと言っても私よりも5つ程年上だったかもしれませんが、話しかけて来たんです。

 


 「絵がお好きなんですね」
 なぜそのような台詞から始まったのかまったく覚えていませんが、とにかく、何か私が美術書かなにかを鞄の中に忍ばせていてそれに彼が気付いたのかもしれませんね。

 私もかなり酔っていたので感じのいい男性だったので、「ええまあ」とか、曖昧な答えとともに、次第に彼の話にひきこまれていったのです。
 要は彼も絵が好きで、クレーが好きです、と言いながら彼の美学を語り始めました。私が今の私ならばクレーの話も出来たのでしょうが、23歳の頃の私は彼の話にはついていけずに、ただ相づちをうつのが精一杯。

 


 「あなたは画家ならば誰が好き?」と聞かれ、私は「いろいろいるが、今はセガンティーニ」と言ったのです。すると、彼の目が今でもはっきり覚えていますが、「いやあこんなところでセガンティーニが好きな方にお見えかかるなんて嬉しい」と彼は握手を求めてくるではありませんか。

 


 いやあ、まいったなあ、とか思いながら私も酔いがかなり廻っていましたし、もう11時過ぎでしたね。
 どうせ明日の会議は昼からだし、今夜はのんびり、酒でも飲もうかというところだったので、話もはずみ、絵画・文学・映画・と話がすすみ、最後に「僕の家にきてください、すぐそこなんですよ」と誘われまして、真夜中の一時くらいに彼の部屋にいくことになったんです。

 

 


 はっきり覚えていますね。
 駅をまっすぐに歩き、左にまがって、路地に入り、そのつきあたりの木造のアパートの一角でしたね。

 月がくっきりと頭上にあり、風もありませんでした。
 ただ、彼のはいていた下駄の音が耳に残っております。

 彼は自分の部屋で、コップにまた日本酒をついでくれ、自分の会社のことをたんたんと喋っていましたが、私は部屋の中をさりげなく見ていました。
 茶の鞄が無造作に壁にかかっており、ラジオがあり、狭い部屋にオーディオの安っぽいシステムでシューペルトのピアノ曲を聞かしてくれました。
 クレーの絵画もそこで初めて見まして、彼は情熱的に語っていましたね。

 不思議な夜でした。
 時間が止まり、私は明日の会議の事など忘れて、彼に御礼の握手をして二時頃彼のアパートを出て、カプセルホテルのサウナに入ってから、いろいろ考え事をしておりました。

 なんで彼はいきなり、私に話しかけて来たんだろうか。
 なんで、絵画の話なんかになったんだろうか。

 それでも、彼の部屋は貧しかったけれども、何か知性を感じさせる品の良さがあり、忘れられない部屋ですね。オンボロアパートでも、ショパンがかかり、クレーの話が飛び交い、セガンティーニについて語れるのならば、彼の人生は充実しているのではないでしょうか。

 


 そしてこのような話というのはいつも日常生活から非日常の神秘感をわずかな間であってもこころに生み出してくれます。

 セガンティーニ。
 ここで出会った「婦人像」はミラノの富裕層の御婦人だろうが、生活のために富裕層の女性達を描いたセガンティーニの複雑な気持ちも伝わってくるようでしたね。
 小磯良平の肖像画をなぜか連想しました。

 

 

 

 

 

◉資料

ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini、1858年1月15日 - 1899年9月28日)は、イタリア画家アルプスの風景などを題材とした絵画を残し、アルプスの画家[1][2]として知られている。一方で『悪しき母達』など神秘的、退廃的な作品を残したことから、作風は世紀末芸術とされることもある。

 

 

 

生涯

幼少時

1858年オーストリアのトレンティーノ(現在のイタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州)にあるコムーネの一つ、アルコで生まれた。父アゴスティノ・セガティニ(セガンティーニの旧姓)は農民階級の大工で、母マルゲリータ・デ・ジラルディは中等階級中のやや低い身分の出であった[3]。ジョヴァンニはマルゲリータの第2子(第1子はセガンティーニが生まれる前に火事で命を落とした[2])で、生まれた頃には体が弱く、両親の周到な注意の下に漸く育つことが出来た[4]。しかし母マルゲリータはジョヴァンニを生んで病にかかり、1863年、ジョヴァンニがまだ5歳の時に29歳で夭折した[5]

父親はジョヴァンニを連れてミラノに向かい、先妻との間に儲けた息子と娘(ジョヴァンニにとっての異母兄妹)のもとを訪ねた。しかしその子供達の生活は困窮しており、ジョヴァンニとその父が到着した頃には店を閉じなければならなくなっていた[6]。ジョヴァンニの父と先妻との息子は、自分達の成功を夢見て、幼いジョヴァンニを残してアメリカに赴き、そのまま帰ってこなかった。後に残されたジョヴァンニは、異母の姉のもとで暮らしたが、異母の姉は毎日ジョヴァンニ一人を残して仕事に出かけた[6]

異母の姉のもとで、窓から空を眺めて単調な生活を送っていたジョヴァンニは、ある日フランスに歩いて行くという思いつきに魅せられ、姉が仕事に出た後歩いて街に出た[7]。しかし数キロ先で疲労のために倒れ、親切な人々に保護された。その翌日にミラノに送り返されそうになったが、ジョヴァンニがそれを嫌がり、またジョヴァンニの経歴を聞いた人々は不憫に感じたため、それからしばらくの間彼らの家においてもらえることになった。この当時ジョヴァンニは7歳だった[8]

そののち再びジョヴァンニは姉の元へ帰ることになったが、そこでは再び冷遇された。ジョヴァンニはしばしば、姉の家ではなく、街中や人の住んでいない家屋の屋根裏部屋で夜を過ごしていた。そこでは飢えや寒さに苦しめられた上、孤独感から愛情にも飢えていた[9]。また屋根裏部屋で天然痘に感染した際にも、姉の元へ帰りたくないジョヴァンニは、医師の好意で出来るだけ長い間病院に留めてもらった[10]

その後親戚の紹介で、ジョヴァンニは薬屋で働かせてもらうこととなった。しかしある夏の日に、他の店員と共に店の金を盗んで逃走した[11]。さらに、逃走中ジョヴァンニが疲労のため眠りについている間に、一緒に逃げていた店員は金をもって一人で逃走。ジョヴァンニは後悔のために死を決意し、3日間農場の枯草置場に潜伏していたが、農夫に発見され、結局ミラノへ送り返された[12]

絵画との出会い

聖アントニオ合唱の間 (1879年)

 

 

ミラノに戻ったセガンティーニは、絵師の助手兼門弟となり、画法の手ほどきを受けた。その当時は、友人の援助を受けながら風景画などをの作品を仕上げ、愛好家に売るなどしていた。しかし生活は困窮し、橋の下で夜を過ごしたこともあった[13]。そののちに、セガンティーニはブレラ美術学校の夜学校に進学、肖像画や劇場の小道具を描くなどして生活費を稼ぎながら絵画の勉強をした[14]。セガンティーニの最初期の作品である『聖アントニオ合唱の間』はこの時期に描かれ、展覧会に出品されて銀賞を受けた[15]

 

 

しかしセガンティーニは、決まりきった画法に忠実な絵を描くことを拒み、自由な方法で創作を行った。そのため教授たちには目の敵とされ、校長に対して苦情を申し入れられた上、展覧会でセガンティーニの作品を最後に展示されたりした。自身の作品が展覧会で最後に飾られているのを見たセガンティーニは激昂し、自作を壁から下ろして破り捨て、街中に飛出して街灯に登り、街灯のガラス板を破壊した。そのためセガンティーニは、結局ブレラ美術学校を退学になった[16]

結婚、ブリアンツァへの移住

湖を渡るアヴェマリア(第2作)(1886年)

ブレラ美術学校を退学になったセガンティーニは、友人達の援助を受けてミラノにアトリエを借り、そこで創作活動を行った[17]。しかしミラノでの生活に満足できず、アルプスの山々に憧憬をおぼえて、スイス国境に近い1881年ブリアンツァ地方のコモ湖畔の村へ移住した。またその前年の12月、セガンティーニは、ミラノでも何度か絵のモデルとなっていたルイジア・ブガッティ(デザイナーのカルロ・ブガッティ(en)の従姉妹)と結婚した[18]

セガンティーニ夫婦はブリアンツァにある村、プジアーノに住まいを構えた。そこでアルプスの自然をもとにした作品を創作し、『十字架の接吻』『横木につながれた牛』『湖を渡るアヴェ・マリア(3作)』『花野に眠る少女』などさまざまな作品を残した。特に、アムステルダム万国博覧会で金賞を獲得した『湖を渡るアヴェ・マリア』は、19世紀の絵画史上で重要な位置を占める作品であるとされる[19]。また、1888年グラスゴー国際博覧会(en)にも多くの作品を出品し、イギリスでも名を知られるようになった[20]

アルプス時代、突然の死

セガンティーニ一家は、ブリアンツァ地方で生活している間も、プジアーノからルガーノカーリオなどへ移住していた。しかしアルプスのさらなる高地に思いを馳せ、1886年にイタリアから国境を越えてスイスへ向かい、ベルニナ地方(en)のポスキアヴォen)やシルヴァプラーナen)を経由して、最終的にグラウビュンデン州サヴォニンen)に到着、セガンティーニ一家はしばらくの間ここで生活した[21]。そこではアルプスの風景や肖像画などを製作して過ごした。また、妻ルイジアとの間には4人の子供をもうけた[22]

1894年に、セガンティーニ一家はサヴォニンを後にし、より標高の高いエンガディン地方(en)のマローヤ(Maloja)に移り住んだ[23]。その地でセガンティーニは、『アルプスの春』などの作品を制作した。そして1898年から、エンガディンの風景が見渡せるシャーフベルクen)にたびたび登り、大作『アルプス三部作』の制作に取り掛かった[24]

しかし、第1作『生』を完成させ、第2作『自然』が完成に近づいた頃、セガンティーニは突然病に襲われた。高熱がつづき、やがて腹膜炎の症状が現れだした。セガンティーニは『私は私の山が見たい』と言い残し、1899年9月28日、腹膜炎によって死去した[25]。遺体はその2日後に共同墓地に埋葬された[25]。三部作の第3作『死』は未完のまま残された。『アルプス三部作』は、スイス、オーバーエンガディン地方、サン・モリッツのセガンティーニ美術館が所蔵、展示されている。

 

これはみたいですね。

『アルプス三部作』

生・・・

死・・・・

そして、未完の「自然」

 

 

 

 

 

 

 

◉資料

セガンティーニは、これまでにない画法でアルプスの風景画を描き、芸術界を驚かせた[26]。アルプスのような高山は空気がうすく、描く対象となるものの輪郭が明瞭であるため、ヨーロッパの平地の風景などを描くのに用いられてきた、風景を単純化して描く印象派風の技法では、高山の風景を描写することが困難であった。そのため、セガンティーニ以前に高山を描いて成功したものはなかった[26]。セガンティーニは印象派の技法を取り入れつつ、澄んだ空気によって明瞭に見える細部を省略せずに描いた。そのため、山岳の構成などは極めて精緻に描かれている一方、絵全体の眺めには統一性がある[27]

晩年には象徴主義的な作品を制作するようになったが、セガンティーニのスタイルや主題が急に変化したわけではなく、初期の作品にあった特徴が現れていると指摘されている[28]。また一貫した作品の特徴として、自らの母を幼い時に失ったことに起因する、神聖な『母愛』が指摘される[29]。母親は「良い母」として描かれることもある一方、「悪い母」として表現されることもあった[2]。前者の作品としては『二つの母』、後者の作品としては『悪しき母達』などが挙げられる。また、アルプスの農民の悲哀に触れたことによって、作品に『哀愁』が表現されるようになったとも指摘されている[30]

セガンティーニの作品は、度々ミレーと比較されることがある。しかしセガンティーニがミレーの作品に影響を受けたわけではなく、二人が同じ田舎の農民として暮らしたということに起因する類似であるとされる[31]