私は、いつも音楽を聞きながら、絵を描きます。 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
至高体験の刻を大切に
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今日も、終わりです。プハーーー。うめえ、しました。赤ワインは、ボトル半分で、抑えました。^^

私は、いつも音楽を聞きながら、絵を描きます。

 

 


音楽は魂の調律師。

その日によって、曲は変わりますが、一つの作品を書き続ける時はその曲にこだわります。
村上ハルキが「ノルウェイの森」をギリシア旅行をしながら、書いたようにです。

三島由紀夫が厳しいことを書いています。
「作家の人生なんかたいしたことはない」と。
 20代で、作品が認められて、あとは、ホテルに缶詰で、作品を描かねばならない。
画家も同じですね。作家の経験の酷さは話にならないと。(普通の中小企業の社長たちの方が、すごい波乱万丈の人生をおくっていると。)

だから、吉行淳之介が言っているように、何を書くか、ではなくて、いかに書くか、と頭をひねり続けます。

「女と何百人経験しようと、同性と異常な体験をしようと、文章のセンスがなければ、作家になれない。」と書いていますが、あたりですね。

やはり、作家の仕事は、イマジネーション。

 あの、ダリでさへ。
 ダリを尊敬すると、彼の家に行って、奥様の、ガラの言動やら様々、聞いて、がっかりしたようなことをエピソードに書いていた、横尾忠則。
 作品は素晴らしくても、人間性は、ダメらしいです。ハハハハハ。

 横尾さん。彼だって、三島由紀夫がいなければ、今の彼はいないでしょう。
 澁澤龍彦。四谷シモン。三島由紀夫。横尾忠則。・・・みんなフレンズです。
一人で、才能だけで、のし上がる。それは、例外はともかく、おごりであり、
 そんなことは滅多にありません。
 
 手塚治虫が書いているように、「才能は他人が発見するのです」から。
 たくさん書いて、たくさん他人に見せる。これしかありません。

 澁澤龍彦氏が、三島由紀夫の自決のあとは、自分を理解してくれる人がいなくなり、もうやる気が失せたと、書いています。
 作家や、アーティストのモチベーションはそのようなものですね。

 私も、三島由紀夫のファンですので、若き頃は、art for art でした。つまり、作品が全てで、人生とかなんだかとか、そんな甘い言葉はいらない、
作品で作家は勝負すべきだ、と。

 そう信じていました。

 でも、今、63歳になって、介護父の世話をしたり、若きアーティストや漫画家の卵たちと、話をすると、彼らは、ただ、生活のために書いているわけです。
それに、写真のような絵。ナイーブすぎる緻密な絵。若くして、交通事故で亡くなったとある若き男性アーティストを連想させます。
 自閉の絵は私も大好きなんですが、心配してしまいます。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 それが作風であって、プライベートでは、人間関係豊かなプハーーも楽しむ人であればいいと願います。

 死んだ人を多く知っているので。
 悲しいです。自分の世界だけに閉じこもって死ぬなんて。

それに比較すると、ゲーテ。
 ドイツに行った時に、彼の本をかなり読んで。感心しました。

 自分でも、絵も描く。
 作品は、もちろん、超一流。
 料理もするし、ダンスもするし、女性とも楽しむ。
 音楽を愛し、人生を愛している。

 小さな、自閉の画家たちとは、ちょいと、違うなと感じ入りしました。

 彼がよく散歩した道やら、彼に所以のあるところを妻と歩きました。・・・

世界は広いのに。宇宙は、もっと広いです。言葉にはならない、イマジネーションの世界で、この世とあの世がつながり、ブラッホールとこの宇宙がつながっているように。

また、ユーモアという言葉は、誰でもが知っているように、humanから発していて、血液なんかとも同義であり、鉄斎なんかを見ても、おおらかに、勉強家で、
俺は画家とは呼ばれたくない、学者だと言っていたということも含めて、彼のあのユーモアのある、暖かな、人間くさい、それでいて、誰にもかけない傑作群。
90歳になっても、最高の大傑作を描くパワー。日本の誇り=富岡鉄斎です。

 そんな画家たちが、好きになりました。年齢かもしれませんが。ハハハハハ。

 シャガール・マチス・鉄斎・北斎・・・・いいですねえ。死ぬその日まで、
 裸婦を書き続ける北斎。夢の龍を追いかける鉄斎。教会の壁にパステルで絵を描くマチス。妻の絵を、故郷を生涯、書き続けるシャガール。
 残念ながら、パリでは、彼の作品は見れませんでしたが、またいきます。パリ。3回目の正直にです。

 ゴッホは、生涯、売れた絵は一枚と聞きます。弟のテオが、買ったものだけです。

 彼は、生きている時には、ノイローゼになるくらいの、集中力でart for artを希求したはずです。

 が、売れませんでした。

 でも、彼の残した本を読むと、彼がいかに、人生を、絵画を愛して、必死に模索していることが、はっきり読み取れます。(彼は、art for artでありながら、深刻なる素晴らしきart for life の画家です。個人的にそう思います。
)

 小林秀雄は、こう言います。

「芸術とは、歴史の中に埋もれたる人間を救う技を案出することである」。
 なんか、小難しいですが、要は、
人の人生は、昔は、50年。

 生まれて、見合いをし、結婚、子供を産み、嫁となり、最後は姑となって、50歳で、死ねたわけですが、それを歴史に埋もれたると表現しているわけで、
 その中に、美しいものをみたり、本を読んだり、音楽を聞くと、ああ、いいなあ、と感動するわけですね。
 すると、「人の魂は救われる」、そういうことだと私は理解しています。

 絵、音楽、文学、映画、その他諸々の芸術、artの力ですね。。

 だから、私は、今、art for lifeの立場にいるのかもしれません。

 小さな絵であっても、大家の絵でなくても、心を込めて、作り上げた作品を家族が喜ぶ。友達が、欲しいと自分の部屋に飾り付ける。
 そして、酒を飲み、美味しい料理で、その飾った作品について、語り合う、・・・この猫はね、とか、この風景はとか、このデッサンはとか、・・・

 なんと素晴らしい21世紀の至福の時間でしょうか ?

・・・・・・・・・

それにしても絵と音楽と文学の関係は調べるとおもしろいですね。

 これまで時間がなくてなかなか、きれぎれの断片の知識やらエピソードやらが、なるほど
そういうことだったか、と納得させられる記事や文章に出会えるからですね。

 世界の中にいろいろな宗教がある事自体、それは真の神様がいないからだという見方もあれば、これだけたくさんの宗教があるということこそ、神の存在証明になるのだ、という見方もあります。

 芸術も同じで、日本でさまざまなる歌をたったひとつのフラジャイルな季語で何百人が歌を作って行ったというのも「何か」をその「季語」から感じるからこそ、歌が生まれるのでまるでその歌の生まれる様は「芸術の神」がいるかのように感じます。<キース・ジャレットはいると確か書いておりましたね>

 たとえば、春寒しと同じ「余寒」という季語だけをちらりと歳時記を開いても、蕪村から一茶、蛇笏からいろいろな12人の句が選ばれてそこに載っております。載らない人の句まで考えれば何百人何千人の「脳裏」をこの季語がかすめていって、そうして、歌が生まれたんですね。

 そう考えると、日本の風土は様々なところに、「孤独」にならないような「しかけ」がたくさんあって、不思議と現代でもそれは機能しております。

 まあ、そこからはみ出すと、「いじめ」があったり「無視」があったり、と湿気の多い日本らしい仕打ちがまっているのですが。
 だから、西洋人の持つ「孤独」というのは、想像を絶するらしいです。(それだからこそ、キリスト教が機能するわけですが)

 仕事での付き合いもなし、家庭で本音を言うかと思いきや、立派な旦那と妻を演じなければならない。ひと月に何回はホーム・パーティやらをやって、どんな本を読んだとか私はこんな事を今考えているとかを発表したりしてその場をのりきらなくてはならない。仮面夫婦みたいなものですね。

 日本みたいに。
 バーやあかちょうちんの暖簾をくぐって、ママやオバちゃんに、「もう会社やめたくなっちゃったよ」と言えば、「何言ってんのよ、この人は」とか笑顔で抱擁されて、すっきりする風土もありませんしね。
<日本も少なくなってきましたね、この手のあったかいお店・・まだまだ、あります、岩見沢市は。ハハハハハ>

 本音をぽろりと漏らすこともできない。
 だからアメリカなどでは、わけのわからない心理カウンセラーがはやる。
 
 宗教がまだまだ機能していた西洋の昔の時代は日曜日ともなると皆教会のミサに行って、お祈りをして、無意識に仲間意識をわかちあっておりましたから、無謀なる孤独のこころはまだ育っていなかったでしょうネ。
 なんでもいいんですよ。周りの人とくだらない話でもりあがったり、デパートの店員さんから言われた一言のお世辞「わあ、お若いですね」で、人は元気がでたりするんですよね。
 
 言葉のルーツを見直していきたいものですね。

 「おはようございます」という挨拶だって、もともとは、「村」の仲間だぞっていう、「山-川」みたいなものだったんでしょうネ。

 だから村八分という言葉がまだ残っていて、変人やわがままな人は、はじかれてしまう。

 昔はそのような人たちは、山に逃げてくらさなくてはいけなかったでしょうから、死も覚悟したでしょう。

 でも、今は、そうなってもパソコンさへあればなんとか生きていけますからね。ある意味、素晴らしく便利。ある意味、孤独が増幅。

 「孤独」が大きくなって行く分、「ひとりでも生きて行ける」恵まれた環境が地球上にできつつあるんですよ。

 でも、人類のその大いなる実験が、たまに破綻することがありますね。
 「銃を無差別に発砲して何人もの人を殺して自殺する事件」です。アメリカではしょっちゅうありますね。

 これも「途方もない孤独」を 私は、感じてしまいます。

 誰か一人でもその彼に声をかけてあげてればそんなことにはならないのではないか、と素人考えしてしますますね。そんな甘いものではないのかもしれませんが。・・・・

 エデンの園を神様から追い出されて、必死に労働するような運命を背負わされた人間。

でも、まだ神様の悪口を言ったり批判したり、その存在について議論しているうちはまだ良かったのですが、「宗教」がほんとうに忘れられたときには人はその「孤独」からどう立ち上がればいいのか、いまだ、皆悩んでいるようですね。

 さっきも書きましたが。

 その「救い」のひとつに、やはり、文学音楽絵画<もろもろの創作活動>の創作行為や楽しむ行為は、特に孤独感の傷の深い人たち、自分の神経や精神のとりまとめに苦労している人たち、にぴったりのある意味では「治療行為」なのかもしれませんネ。

 私の勝手気ままなる「救い」のある場所は、
 なにやら、
 
 ひとつが、その文学音楽絵画などのあらゆる「想像力による言葉、音、色彩・線による美的秩序」で、救われる。
 ひとつが、散歩などで、感じる「自然の声を深いこころで聞き、自然に波長を合わせて生きること」で、救われる。
 ひとつが、クロソウスキーやバタイユが書いた「エロティシズム」、で、救われる。(愛する人がいる人は幸福です。)
 でしょうネ。

 ひらたく言えば、音楽に酔いしれ、文学で覚醒し、絵画で目に栄養を与えて、森や湖で遊び、いつまでも恋するこころを忘れなければ、「自然の摂理」「宇宙の本質」に充電することがいつでもスムーズにできるようになれば、人のこころは荒れる事もなく、幸福になれる筈。

 人をほんとうに好きになるとそれは<恋=甘いもの>でもなんでもなくて、砂漠の土地を歩いているような気分になりますヨネ。簡単に両思いは難しいですし。
 皆哲学者になります。笑。
 
 そして、そのartによる、「至高体験」は伝染しますので、人類の「意識のレベル」アップを<ひとりなんだけど皆で>、前の方に押し進めることができるという実感を得ることができると思いますね。

 夜も更けてくると、こんな、アホなことを考えながら、ワインを楽しんでいます。---^^