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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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レヴィ・ストロースが驚いた、日本神話がそのまま残っている体質。長い皇室の歴史。世界にも類のない国ということをもっと知らねば駄目だろう。

 

 

ゲルマン神話は、キリスト教に、一気に押し流されてしまった。

 

ギリシア悲劇は、テキストは残っていても、演劇そのものは残っていないけれども、日本の能はまるでそのまま、丸ごと、残って続いている神秘。

 

 

英語の一字一句を深く調べて、地道な作業をコツコツ大切にする渡部昇一氏。

 

彼の存在は偉大だった。今、彼がいないということは本当に寂しい。小堀圭一氏の親友。

 

◉資料

渡部 昇一(わたなべ しょういち、1930年(昭和5年)10月15日 - 2017年(平成29年)4月17日[1])は、日本の英語学者、評論家。上智大学名誉教授。専攻は英語文法史。学位はミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)博士。名誉学位はミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)名誉博士。公益財団法人日本財団評議員[2]。

 

山形県鶴岡市出身。1948年(昭和23年)山形県立鶴岡中学校(旧制)卒業、1949年(昭和24年)山形県立鶴岡第一高等学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)卒業を経て、同年に上智大学文学部英文学科に入学。上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了を経てドイツのミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)大学院博士課程修了。自著[3]によると極貧の状態で大学を卒業し、奇跡的にヨーロッパの大学に留学し、学位を取ることができたと記述されている[4]。

ミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)哲学博士(Dr.Phil. 1958年)、オックスフォード大学留学、ミュンスター大学(ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学)名誉哲学博士(Dr.Phil.h.c. 1994年)。ヨーロッパから帰国して10年ぐらい経った助教授の頃、フルブライト・ヘイズ法によるアジアからの訪問教授プラン(VAPP)によって渡米、4つの州の6つの大学で半学期ずつ講義を行う[5]。上智大学講師、助教授、教授を歴任して定年退職。2001年に上智大学より名誉教授の称号を受ける。

専門の英語学以外にも歴史論、政治・社会評論を著している。内面の充実を求める生活のさまざまなヒントとアイデアを示した著書『知的生活の方法』はベストセラーとなった[6][7]。また、大島淳一のペンネームでジョセフ・マーフィーの成功哲学を日本に紹介した。

古書の蒐集家であり、専門の英語学関係の洋書だけで約一万点を所有。その蔵書目録はA4判600ページあり[3]、日本ビブリオフィル会長を務める。他に主な役職としては、インド親善協会理事長、日本財団理事、グレイトブリテン・ササカワ財団(日本財団のイギリスにおける機関)理事、野間教育財団理事、イオングループ環境財団評議員、エンゼル財団理事、「日本教育再生機構」顧問等。

政治・歴史に関する評論については、保守系オピニオン誌である『正論』や『諸君!』『WiLL』『voice』『致知』など保守派寄りのメディアへの寄稿が多い。

近年は魂の存在を肯定する発言を行なうなど、スピリチュアリズムに関する著作を出版していた[8]。

2017年4月17日、心不全により死去。86歳没[1]。

業績 受賞・受勲[編集]

ミュンスター大学で英文法の歴史を研究、1958年ドイツ語で著した学位論文は現地で出版され、英語にも翻訳された。日本語版は「英文法史」として研究社から出ている。[9][誰によって?]授与されたた学位は、”Dr.phil, magna cum laude”「大いなる称賛を以って 博士号」である(因みにこれはラテン語)。[10]

1975年(昭和50年) -『腐敗の時代』で日本エッセイストクラブ賞受賞。

1985年(昭和60年) -第1回正論大賞受賞。

2015年(平成27年)春 -瑞宝中綬章受勲。

主張[編集]

盧溝橋事件は中国共産党の陰謀である、戦前の学校で習った歴史の見方の方が正しかったと主張[11]している。

南京事件に関しては、「ゲリラの捕虜などを残虐に殺してしまったことがあったのではないか、こういうゲリラに対する報復は世界史的に見て非常に残虐になりがちだ」[12]と殺害の事実は認めているものの、「ゲリラは一般市民を装った便衣兵であり、捕虜は正式なリーダーのもとに降伏しなければ捕虜とは認められない。虐殺といえるのは被害者が一般市民となった場合であり、その被害者は約40から50名。ゆえに組織的な虐殺とはいえない」と虐殺行為は無かったと主張している[13]。WiLL2007年4月号[要ページ番号]では、松井日記の南京についての記述を根拠に、「南京大虐殺は無かった」と主張している。

「ヒトラーやムッソリーニ、二・二六事件の青年将校らは共産主義者である」と主張している[14][15]。

慰安婦問題に関しては、朝日新聞の吉田清治や吉見義明に関連しての報道や日本の弁護士の日本政府への訴訟、日本政府の安易な謝罪などが重なったことが原因で騒動になったもので、国家による強制や強制連行はなく、捏造であることが証明されているとしている[16]。2007年、日本文化チャンネル桜社長(当時)の水島総が代表を務める「慰安婦問題の歴史的真実を求める会」がアメリカ合衆国下院による対日非難決議案(アメリカ合衆国下院121号決議)に対して作成した抗議書に賛同者の一人として署名した。抗議書が駐日アメリカ合衆国大使館へ手渡された同年7月13日、渡部は記者会見で「(対日非難決議案にあるように)朝鮮半島で20万人もの女性をかき集め、トラックで運べば暴動が起きる」と述べ、決議を非難した[17]。

沖縄戦における集団自決問題について、「実際には積極的に日本軍に協力した沖縄の人々が復帰後、左翼メディアに煽動され、歴史で騒げば金が出ると考え、堕落した結果である。」と述べた。また戦時中「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓をもっとも強く鼓吹したのは朝日新聞であったことは看過できないとしている[18]。

戦後の“反日的左翼”の起源を、公職追放など占領政策によって利益を得た「敗戦利得者」および「コリア系」の出自を持つ人々に求め、彼らが東京大学、京都大学などの主要大学、朝日新聞などにポストを占めることで戦後の教育界、言論界は歪められたとしている[19]。

満州にアメリカを関わらせなかったことは失敗であったとして、現在の対中外交にもアメリカを関わらせるべきであるとしている[20]。

論争[編集]

参議院議員平泉渉が1974年、自民党政務調査会として「英語教育改革試案[21]」をまとめた。公聴会で意見を求められた事も有る渡部が、雑誌「諸君!」に批判文を掲載。元外交官で仏語に堪能な平泉が応じ、5回に亘って英語教育論が展開される。渡部の主張は、近代西欧文明を享受できたのは複雑な原文でも正確に読める、伝統的英語教育に依ったから。顕在力を養うのは、高校までに潜在力を仕上げた後の問題だ(平泉のアテネ・フランセ通いも同じ)。英語精読力の無い英米育ちの高校生は多い等というもの。経済界、PTAは平泉を支持し、現場の教師は批判的だった。論争の反響は大きく、各方面が取り上げた。[22]

1975(昭和50)年4月から半年間、月刊『言語』誌上で上と神が同根か否かを廻って、大野晋と学問的な論争が続いた[23]。大野によると、上のミは上代特殊仮名遣の甲類で、神のミは乙類であるから、両者に関係が無い[24]。「神は上にあらず」[25]は白石、宣長以来の定説を覆す主張であった[26]。同一語源の語が意味の分化を生じたなら、それに従って語形の一部を変えるのが自然ではないか、大野説では日(甲類)と火(乙類)の同一語源を説明できない、口腔図の距離と音韻転化に関係が無い、 甲類が先で乙類が後の時系列か、等とする主張を渡部は、主に日本語以外の例で述べた[27]。論争の終盤で他の学者が渡部支持だった[28]、大野の反論が無かった[29]故に論争の決着はついたようだ[30]。「上にいますから神」という白石・宣長以来の説は少しも妥当性を失っていない[31]、と渡部は述べている。

南京事件についての主張は、現代史家の秦郁彦から批判されている[32]。「大幅借用」問題は1984年に出版された『南京虐殺の虚構(田中正明)』で渡部の「大げさな推薦文[33]にカチンと来」[34]た秦が、1年後に田中の「松井石根大将の陣中日記」改竄が明らかになったのを機に、田中・渡部らの「まぼろし派」を批判した[35]ことに始まる。自身「中間派」の秦は渡部を、「写真ぐるみゲルリッツを大幅借用したくらいだから、盗用や改竄には理解があるのかも知れない[36]」と、1年前の推薦文を事後の改竄事件から問題視した。俎上に挙げられた渡部『ドイツ参謀本部』は1974年の出版だが、当時「ゲルリッツの本を私自身が翻訳刊行しようと考え[37]」ていたと秦は語る。

1980年『週刊文春』誌上で、小説家の大西巨人に対し、息子2人が血友病であり高額な医療費助成がなされていることから、「第一子が遺伝病であれば第二子を控えるのが社会に対する神聖な義務ではないか」と問題提起し、大きな論争を巻き起こした。

教科書誤報事件への批判などで朝日新聞・毎日新聞と激しく対立[38]。

皇位継承問題に関しては男系主義者の立場を採っており、この点では小林よしのりと思想的に対立する。

WiLL2008年7月号の日下公人との対談において、「…ですが美智子様が皇室に入られたために、宮中に仕えていた女性がみんな辞めてしまったそうです」と発言したことについて宮内庁より説明を求める抗議を受けている。宮内庁によれば、そのような事実はなく「その根拠,理由などを承知したく」渡部に要求している。また、同誌において渡部は「ですから、皇太子殿下が一番大切な時期にイギリスに4年も留学なさったというのは、長すぎます」と発言している点についても宮内庁は「当時の徳仁親王殿下が英国に留学なさったのは、昭和58年6月から昭和60年10月までの約2年間です」とその発言が正確性を欠いたものであることを指摘している[39]。

「適度の放射線被爆は健康を増進する」[40]との研究から、転換域値は「おそらく、毎時50ミリシーベルトと毎時20ミリシーベルトの間にあるらしい」[41]と述べている。宇宙飛行士・原発労働者の研究[42][43]に基づき、ラドン温泉の例[44]、世田谷区の例[45]、チュビアーナ博士の研究[46]等から裏付けられる。ICRP(国際放射線防護委員会)基準による批判も有り得る[注 1]が、ICRPは21世紀に入ってから進んだ低線量研究の成果を反映していない、と ラッキー博士は主張する[48]。ウェード・アリソンもICRPの勧告は根拠がないから改めるべきだと述べていこと等から、渡部はICRP基準に疑義を呈し[49]、福島県の風評被害の根絶を主張している[50]。

南京事件を調べていて反対尋問の重要性を認識したが、田中裁判では最重要証人に対しこの機会が与えられなかった。1984年『諸君!』誌上で「田中擁護論ではなく、日本の司法の犯罪に関するもの[51]」、即ち刑事免責を確約して得られた違法な嘱託尋問調書に証拠能力は無い、反対尋問を許さない地裁判決は憲法違反である、と問題提起を行った[52]。これに立花隆が『朝日ジャーナル』誌上で応酬する形で進む。秦野章、俵孝太郎、山本七平、小室直樹等が立花の批判の対象にされたが、渡部に対しても冒頭陳述の意味や「証拠能力」と「証拠の証明力」の区別を知らず、裁判記録さえ読むことなく自らの妄想を元に批判をおこなっていると主張した[53]。渡部は第二審が始まった段階で立花との公開論争を打ち切った[54]。2012年、渡部は、要望があればいつでも立花との議論に応じる構えを見せている[55]。立花は『巨悪 vs 言論』のなかで渡部らの批判に対してまとめて、ロッキード事件から時間が経ち皆が忘れていることをいいことに論点ずらしをしている点、ロッキード裁判は丸紅による収賄に対する裁判でありロッキード社については周辺事項にすぎない点、ロッキード裁判は榎本敏夫が完全自供した時点で決着している点を指摘している。また最高裁判決も、立花らが主張した有罪が確定している。田中の死により上告棄却されたが、榎本首相秘書官の上告審で、最高裁は嘱託尋問調書の証拠能力を否定した。当初からの主張は正しかった。法に基づく適正手続きを欠いたロッキード裁判は裁判史上最大の汚点である、と言い続けている[56]。

その他[編集]

幼少時代は、貧しいながらも父が本に関しては制限しなかったために、少年倶楽部を好んで読んでいた[57]。

大学1年の夏休みに帰省すると、父親が失職していた。来年の授業料の見通しが立たない。学科で首席になり、授業料を免除してもらう(特待生)以外に道は無い。必死の覚悟で勉強した。おかげで授業料をその後は払うことなく卒業できた。[58]

留学した初めの頃は(専攻外の)ドイツ語が通じなかった。ウンターハルトング(楽しき語らい)に男女学生を誘って歓談上手に努力したので、3年後には応じきれないほど家庭から招かれた。[59]

大学の哲学授業に百点満点を取り、自信になった。学位論文にもハイデガー、グラープマンに言及・引用した事が好印象を与え、おそらくそんなこともあって、学位に「magna cum laude」という美称がついている、と渡部は語る。[60]

ドイツの伝統ある官立大学で師事したのはシュナイダー教授であったが、生涯で僅か15人しか哲学博士(Ph.D.)を造らなかった。その4番目がPh.D. 渡部である。[61]

1960年代何度か訪日した、経済学者で思想家のフリードリヒ・ハイエクの通訳を務めていた[62]。

蔵書は14万冊を超える(井上ひさしや阪神大震災前の谷沢永一は20万冊、立花隆は10万冊、丸山眞男は3万冊ともいわれる)[要出典]。そのため本の置き場に困り妻からは「うちには人権ではなくて本権がある」といわれたことがあった。意を決して70歳を過ぎて借金をしてその蔵書全てが収まる書庫を建設したが、すでにスペースが埋まってきているとのこと[63]。

近年は幸福の科学との交流が深く、大川隆法と対談を行ったこともあり[64]、ザ・リバティに有識者として意見を述べている。大川隆法による霊言「渡部昇一流潜在意識成功法」が出版されていることに対し、「読んでみた所、守護霊の意見は8割ぐらい同じだった」と述べている[65]。

堺屋太一・竹村健一と交流が深く、3人で講演会を催したり共著を出したりしている。

田中角栄を巨悪と断じ、政界から葬り去ることを正義とする世相の最中「堂々と持論を発表されていた渡部先生を尊敬しています」と、著名な憲法学者から告白されたと述べている[66]。

著作はすべて初版で読んできたというほどの松本清張のファンである[67]が、『昭和史 松本清張と私』では松本の歴史観に対し違和感も表明している。

史論家として頼山陽・徳富蘇峰・樋口清之を高く評価しており、頼山陽の『日本楽府』を現代語訳している。

河合栄治郎を尊敬していると述べている。

自民党の衆議院議員稲田朋美の全国後援会『ともみ組』会長を務める[68]。

映画「南京の真実」の賛同者。

若い頃から音楽にはほとんど興味がなかったが、夫人が桐朋学園音楽科の1期生でピアニストであることもあり、3人の子供が全員音楽家(長女:ピアニスト、長男:チェリスト、次男:ヴァイオリニスト)となっている[69][70]。

古くから世界基督教統一神霊協会(統一教会)と関係を持つ。1985年6月のカウサ(CAUSA。アメリカ社会統一協会連合)第三回日本会議に出席、さらに、1985年8月5日の東京勝共講師団結成集会では基調講演を行っている[71]。また、自宅に無料配布される世界日報 (日本)は発行母体が統一教会という問題の有る団体だが、文鮮明絡みを除けば[72]「この四分の一世紀の間、日本のクオリティ・ペーパーであった」と2001年1月の世界日報25周年記念メッセージ[73]において6行で、他の4人とともに述べている。また一時「世界日報をおすすめします」と題する世界日報の広告にも登場し、同様の内容のコメントが他の3氏の物と共に掲載されていた[74]。

アパグループが主催した第1回『「「真の近現代史観」懸賞論文』懸賞論文の審査委員長を務めた。2008年10月31日に最優秀藤誠志賞に航空自衛隊幕僚長・田母神俊雄の論文「日本は侵略国家であったのか」を選考[75]した。論文内容は「侵略国家ではなかった」とし、日中戦争の原因を蒋介石に巻き込まれた濡れ衣であると主張するなど、渡部の近現代史論に近いものであった。その後、この論文は田母神が「政府見解と異なる主張をしたうえ、上層部の許可を得ずに外部に論文を提出した」などとして防衛大臣の浜田靖一に即日更迭処分を受ける一因[76]となった。

 

●彼の属していた日本文化会議のそうそうたるメンバー。

日本文化会議(にほんぶんかかいぎ)は、保守系知識人の文化団体。1968年、田中美知太郎を中心に結成され、94年に解散した。雑誌『文化会議』を刊行し、東西比較文化などでセミナーを開催し、書籍として刊行していた。1969年創刊の文藝春秋のオピニオン誌『諸君!』の執筆メンバーを形成し、サントリー文化財団、国際日本文化研究センターなどへ発展した。

編纂[編集]

日本は国家か 読売新聞社 1969

70年代のアジアと日本 読売新聞社 1970

アジア人はアジアをどうみるか 経済往来社 1971

日本に教育はあるか 共同討議 研究社出版 1972

日本人の法意識 調査分析 至誠堂 1973

日本におけるジャーナリズムの特質 東西文化比較研究 研究社出版 1973

日本美は可能か 美意識と倫理 東西文化比較研究 研究社出版 1973

自然の思想 東西文化比較研究 研究社出版 1974

日本人にとって法とは何か 共同討議 研究社出版 1974

ことばと文化 東西文化比較研究 研究社出版 1976

日本人は自由か 紀伊国屋書店 1976

歴史像の東西 東西文化比較研究 研究社出版 1976

文化と国土設計 東西文化比較研究 PHP研究所 1978.11

国際誤解の構造 東西文化比較研究 PHP研究所 1979.9

文化と国土設計に関する調査 日本文化会議 1979.3

国際誤解と日本人 新しい日本人のイメージ 三修社 1980.12

西欧の正義日本の正義 三修社 1980.3

日本の知識人 その系譜と役割 PHP研究所 1980.7

地方都市のまちづくりと景観に関する調査 日本文化会議 1981.3

沿岸域総合利用計画調査報告書 沿岸域の歴史的・文化的側面を中心として 日本文化会議 1982.3

現代日本人の法意識 第一法規出版 1982.7

適応力 新しい日本人の条件 三修社 1982.1

日本と国際環境 三修社 1982.11

国際誤解と日本人 三修社 1983.6

成熟社会への条件 自己変革の時代 三修社 1983.12

経済と文化の時代 新しい関係を求めて 三修社 1985.1

激論・教育 改革の視点 三修社 1985.9

東京における水辺空間の歴史的研究 日本文化会議 1985.3

歴史のある文明・歴史のない文明 岡田英弘ほか編 筑摩書房 1992

世界都市の条件 高階秀爾・芳賀徹編 筑摩書房 1992

新しいアジアのドラマ 川勝平太編 筑摩書房 1994

メンバー[編集]

初代理事長・田中美知太郎

村松剛-設立趣意書を執筆

三島由紀夫-没する(自決)寸前に脱会

鈴木重信

川端康成

小堀杏奴 

会田雄次

飯田経夫

菊竹清訓

木村尚三郎

黒川紀章

阿川弘之

高坂正堯

石川忠雄

河盛好蔵

中村光夫

渡部昇一

香山健一

小堀桂一郎

江藤淳

平川祐弘

村松暎

勝部真長 

小松左京

佐伯彰一 

下河辺淳

岡崎久彦 

竹内靖雄

野田宣雄

田久保忠衛 

芳賀徹 

林健太郎 

本間長世

武田豊

平岩外四 

武藤光朗 

山崎正和 

白洲正子

清水幾太郎 

石川忠雄

神谷不二 

高階秀爾

岩田慶治

林吉郎

小木新造

渡辺利夫

関嘉彦 

源了圓

粕谷一希 

今道友信 

山本七平 

グレゴリー・クラーク 

岡田英弘 

斎藤美津子 

志水速雄 

佐瀬昌盛 

佐藤誠三郎 

天谷直弘 

佐々淳行 

中嶋嶺雄 

矢野暢 

永井陽之助 

小田晋 

徳岡孝夫 

島田謹二 

小池和男 

木田宏 

水野肇 

藤井隆(2代目理事長)

桑木務

増田弘 

公文俊平 

佐伯喜一 

小島慶三 

石井威望 

千谷七郎 

入江隆則

加藤寛

藤井丙午

鳥海靖

井尻千男

高根正秋

川勝平太