70年代の歌には、魂を感じる。
ただ、楽しいとか、元気とか、・・・・・それは、あくまでも最後に咲く、花であって、その前の、土などの耕しが、最近の歌には感じないなあ。・・・
昔の曲の良さは、「不幸」や「孤独」や「悲劇」に対する免疫だろうと思う。
苦しくてもなんとかなるとか、苦しさの本質をきちんと見つめている。
最後に花咲くことを信じている強さがある。
「幸福という名の不幸」という本を書いた作家もいたけれど、それだと思う。
現代では、「死」や、「不幸」、「孤独」、「暗さ」というものをあまり、みんな考えずに、
そこからただ、いつも、逃げようとしているではないだろうか。
だから、いつまでも、それらは追いかけてくる。
人生、そんなに良い事ばかりの筈はない。
タオではないけれども、「絶対」は「相対」なんだから、「幸福」は「不幸」ということ。
「自由」は「孤独」を覚悟しなきゃ。
「孤独」は人の故郷じゃないか。
相反する概念が、風風船のように、くるくる、まわっているんだね。
「死」や、「不幸」、「孤独」、「悲劇」だって、それは、人にくっついてくる、当たり前のことなんだから。
そこで終わりではなくて、そこから出発するんだから。・・・
いろいろな人に歌われています。
◉資料 週刊誌より。
寺山修司に見出され、『夜が明けたら』などで知られる歌手・浅川マキが2010年1月17日に亡くなって、8年が過ぎた。浅川マキという時代と、彼女の生前を追った――。
* * *
マキと親しかった作詞家の喜多條忠が語る。
「マキもいつもカネがなかった。事務所にバンス、バンス。サラ金から2回50万を借りて、20年かかって返したりした。しかし、みんながいう通り、見事な生き方で見事な死に方でした。わたしには、ずっと姉御でいい女でした」
マキは麻布十番のマンションの4階1LDKにひとりで暮らした。ベッドの空間を除いて、本とレコードとCDがあふれ、歩くのはその隙間の踏み分け道。冷蔵庫は、外のベランダ。テレビは音だけしか出さなかった。
この頃、浅川マキのステージは、少ない年はたった10日しか歌わないことがあった。 バックバンドへの支払いは即日。ほとんどマキの手許に残らないことがあった。
最後の新作アルバムは13年前の1998年だった。長野オリンピックがあり、和歌山毒入りカレー事件が起きた。
印税収入があるとはいえ、生活は厳しく、清貧だった。マキのプロデューサー・寺本幸司氏は、最後になった名古屋の満員の客入りで勘定した。
「ワンドリンク代を引いて6000円。満員70人だから42万円。これが3日間。メンバーのギャラ、足代、宿泊料を引いて約40万円残る。これで3か月は暮らせるな」
マキの写真を撮りつづけてきた田村仁氏にも思い出は尽きない。
マキが近所のスーパーで惣菜を買う。切り干し大根、小松菜のおひたしの50円パック。あるいは、黒いコート、黒い野球帽に100均のビニール袋を持ってタクシーに手を振る。誰も止まらない。ホームレスに見えたからだと田村は思った。
極度の近視で木にぶつかり、左目に網膜剥離を起こした。すぐに手術すれば完治する。だが公演を間近にして、手術は1か月後、結局、失明した。
「思うように生きてきたから、左目を失ってもいい」と思ったと周囲に話した。さらに、残された近視の右目も酷使により、没する前はほとんど見えなかった。部屋の踏み分け道を手さぐりで歩いた。それでも死んだ年にはライブや新曲など、新たな浅川マキを生み出そうとしていた。
※週刊ポスト2011年3月4日号