ギュスターブ・モローについて・・・・・妄想 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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かつて、大昔。
大学時代、あれは4年生の頃、「神田川」がヒットして、ラジカセからは必ずその曲が一日に何回もかかってきておりました。
上村一夫の「同棲時代」という漫画がはやり、私も自然に好きな女の子と一緒に半年ほど暮したことがあります。
オスカー・ワイルドが卒論のテーマだったので、辞書や、キャベツ入りのスープを手軽に作ってくれる彼女のそばでそれを完成させようという若いオバカな私の戦略だったのかもしれませんが、とにかく、ふたりはお互いに相思相愛を信じていましたから、結婚という言葉は出しませんが、なかよく辞書を貸し合ったり、イギリスの文学について深夜まで語り合ったりしたものです。

そのワイルドの世紀末文学として名高い「サロメ」については彼女と一番盛り上がり話し込んだ記憶がありますが、官能と自分の欲望のために、幻想に身を投げて破滅する「宿命の女」の典型、東洋の妖姫サロメの心理まではとうてい推測はかりがたく、そのサロメの美意識が、西洋で、ユイスマンスやらプルーストやらモローやらビアズリーやらリヒヤルト・シュトラウスなどの、世紀末デカダンス文学や音楽に大きな影響を与えたことを本当に理解したのはずっとあとのことです。

ただ、ただ、日夏耿之介のあの妖艶で豊饒なる漢字というか訳語に陶酔していた自分がいました。

ちなみに、三島由紀夫さんがいつか外国の作家に「あなたは書く字の形を意識して言葉を書くか」と聞いたら、ノーと言う返事がかえってきたらしい。
それだけ、日本語の自在、自由が感じられ、日夏耿之介の訳したワイルドの「サロメ」の独特の世紀末の雰囲気が忘れられません。

脱線。

モロー美術館は、そういうわけで、世紀末的な雰囲気を醸し出す彼の実家をそのまま美術館にしたものらしいです。

 

 

 


フランスの美術館で言えば、オルセー、ポンピドゥー、ロダン、ブールデル、ピカソ、ルーヴル美術館と、澁澤さんの言葉を借りると、すべてが「パロック」「バロック」で、公園からはじまり、ウィーンもミュンヘンもプラハもパリもマドリッドもヴネツィアもローマも、それぞれに微妙なる時代と様式の反映の差をしめしながらも、私たちに直接目に訴えかけてくる街の外観としては、すべてこれバロックであるといっても差し支えあるまい、と書いている以上、このモロー美術館の「東洋」の神秘や神話の世界、聖書の<たぶん旧約聖書>などを生涯研究したこじんまりとした、モローの美術館が日本人の観光客の「癒し」になっていて、人気がそのためにあるのかもしれませんね。


もともと、バロックというコンセプトは、古典主義と対立するべく人間精神の常数としてはじめてバロックの復権を企画したのはスペインのエウヘニオ・ドルスでした。

といっても、バロックなるものはもともとヨーロッパにはこの言葉ができる前から存在したわけですから、彼の命名は偉大であると言えます。
彼の視点から命名された世界のバロックを探せば、インドのコナラク寺院、メキシコのマヤ文明の石像、日本の三十三間堂の千手観音像もまた、バロックなのですね。<クロード・ロウ「バロック芸術」>


というわけで、このモロー美術館は私の行きたい美術館のひとつになりました。


 

こころのサプリ アフォリズム=箴言集-img347.jpg


<オスカー・ワイルド サロメなど原書 吉祥寺の古書店で安く買えました。ありがたいです。>

ここで、「東洋の妖姫」と、書きましたが、ここがポイントだと思いますね。

日本人が西洋の文化にどこか異国を感じ憧れるように、彼らもまた東洋の文化に神秘を感じ憧れたとしても不思議ではない。

彼はまさに教育の才があったのでしょう、彼の弟子であるマチス、ルオー、マルケ、マンギャン、カモワンなどは、モローがいなければ彼らもまたいないのかもしれない。
そして、そのあたりが彼の死後、あまりモローの評価がいまいちだった理由でもあったらしいが、今はそんなこともなく世界の芸術家や彼の美術に触れた人たちに多大なるインスピレーションを与え続けている。
クレーのことを連想したが、この連想は間違っているかもしれないし、意外に正しい連想なのかもしれない。


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ギュスターヴ・モロー(1826-1898) 象徴主義


モローの女たちは、みな、やや悲しげな表情を持ち、笑いもせず泣きもせず、時間の中に凍りついている。こうしたまるで仏像のような静けさを、モローが定着したいと思っていたことは疑い得ない。
『彼方の美』/ 福永武彦