ペルス 詩=無限を見る想像力 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
至高体験の刻を大切に
絵のある生活 を 広めたいです !!!

 暑い。
 体調まずまず。
 血行を良くするために、まず、トイレ・皿洗い・サプリを飲み、書庫の本の整理整頓・・・これが、非常に、血行を良くする。


 こんな日は、好きな本を読んで脳刺激。これは効果あり。ヒントがあれば、ブログにコレクション。腹も少し減って来たので急いでコレクション。



 欲に満ち満ちたことを考えることもなくなり、我欲をなくし、宇宙のなかに大昼寝をしたくなる本。

  すべてはもう自分は手のなかにぜんぶ、持っているではないか。


 西洋的論理は棄てて。


 「現代人の悩みは、有限と無限との隔たりが、日に増し遠ざかりゆくところにある」ペルス


  頭の良し悪しなんか、関係ない。


  目をつむって、地球を頭のなかでぐるぐる、まわること。
  この太陽系を思ってみる。
 銀河系を、
 さらにその他のおおくの銀河系の友達を。
  そして、それらを包み込んでいる巨大な宇宙が、実はひとつの細胞みたいに、小さく、
 もっと巨大なsomething の一部。

  シャボン玉のように次から次へとできてくる、子供の宇宙。

  言葉の力をかりずとも、頭脳のなかで、人は無限の旅ができる。しようと思えば。



 
 12時か。
 雑用終わり。
 これから、父親のおむつを買いに行く。
 あとは、ゴミ捨て用のビニール袋。
 偽麦酒。

 奇蹟のようなろくでもない一日がまたはじまる。











「風」
風がおそらく吹き起こるだろう、そうしてわれらが一夜の「美女たち」と共に引きさらうだろう、銀箔の冴える鉄格子に厚手の白いレースが掛かった涼しい住居を、鉤つきの鎖に下がるすべてのシャンデリアを、そして家族の大鞄、衣装戸棚の夜会服、また「外国人」の身分証をも。

















◎資料


サン=ジョン・ペルス

ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1960年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:我々の時代の状況を先見的に反映した、彼の詩の高らかな飛翔と喚情的な形象に対して

サン=ジョン・ペルス(Saint-John Perse, 1887年5月31日 - 1975年9月20日)は、フランスの詩人、外交官。本名マリー=ルネ・オギュスト・アレクシ・レジェ(Marie-René Auguste Alexis Leger)、偽名はアレクシ・レジェ(Alexis Leger)1960年にノーベル文学賞を受賞した。
人物

サン=ジョン・ペルスはグアドループのポワンタピートル(Pointe-à-Pitre)で生まれた。父親は弁護士でグアドループに住んでいた。ペルス一家は、自らが所有する2つのプランテーション(1つはコーヒー、もう1つはサトウキビ)の管理栽培していた。

1897年、グアドループの議会初の現地出身の議長であるエジェジップ・レジティミュス(Hégésippe Légitimus)は、入植者に対する報復的政策を打ち出し経営が成り立たず。ペルスの家族はフランスに引き揚げ、ポーに住むこととなった。ペルスはフランス本国には疎外感を抱き、ハイキング、フェンシング、乗馬、セーリングなどのスポーツにのめり込むようになっていった。

1904年、バカロレアを得て、ボルドー大学で法学を学び始めた。また文化クラブに顔を出すようになり、そこでフランシス・ジャム、ポール・クローデル、オディロン・ルドンらと出会った。処女作であるロビンソン・クルーソーの翻訳を出版し、次にピンダロスの翻訳を手がけた。1907年、父親が亡くなり、家庭の財政状況が厳しくなって大学を退学したが、学位は取得することができた。1910年に詩集Elogesを出版した。

1911年、フランス外務省に入り、1年目はスペイン、ドイツ、イングランドで勤務。第一次世界大戦が始まると報道担当となった。1916年から1921年にかけ、北京のフランス大使館で勤務。1921年、ワシントンで行われた軍縮会議に出席した際に、首相だったアリスティード・ブリアンに見初められ秘書となった。パリではアンドレ・ジッドやポール・ヴァレリーの主催する文芸サークルや、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ナディア・ブーランジェ、フランス6人組らがいた音楽サークルに参加した。同じく外交官・詩人ポール・クローデルとは深い交流関係が続いた。

1924年、サン=ジョン・ペルスというペンネームを初めて用いて『Anabase 遠征』を出版した。1932年にブリアンが亡くなり、フランス外務省の要職に就いた。1933年から1940年にかけ政府の不安定な時期に外務省事務総長を務めた。1938年に行われたミュンヘン会談では首相エドゥアール・ダラディエの随員となり、チェコスロバキアのドイツへの領土の譲渡に反対したが失敗に終わった。ナチス・ドイツのフランス侵攻の最中の1940年5月18日にポール・レノー首相によって解任され、フランスを離れアメリカ合衆国に亡命した。

ヴィシー政権は、レジオンドヌール勲章を剥奪し市民権も奪った。パリの留守宅は占領してきたドイツ軍によって荒らされた。サン=ジョン・ぺルスはアメリカ議会図書館に勤務するまで、しばしば財政的困難に陥った。『Exil 流適』は、その時の作品である。後にハーバード大学でも教えるようになった。

名誉回復がされたが戦後も、アメリカ合衆国メイン州など各地を転住しつつ留まった。1957年、プロヴァンスに別荘が提供され、フランスとアメリカを行き来しながら生活した。1958年に裕福なアメリカ人ドロシー・ラッセルと結婚した。スウェーデンの外交官で、第2代国際連合事務総長のダグ・ハマーショルド(訳書に「道しるべ」、みすず書房)と深い交流があり、ノーベル文学賞に推薦したのも彼である。近年、英語版で往復書簡『The Poet and the Diplomat 詩学と外交』が出された。

1960年度ノーベル文学賞を受賞した。1965年、ダンテ生誕700年記念式典で講演した。1975年にプロヴァンスの別荘で亡くなった。