ガロとCOM |   心のサプリ (絵のある生活) 

  心のサプリ (絵のある生活) 

画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
至高体験の刻を大切に
絵のある生活 を 広めたいです !!!

あなたが子どもだったころ―こころの原風景 (講談社プラスアルファ文庫)/講談社

¥924
Amazon.co.jp

COMは、中学生の頃に、岩見沢の中川本屋で、見つけた。狂喜しました。
 創刊号から、ラスト号まで、全巻持っています。
 最近、小林よしのり氏が、全巻持っていると知りました。^^


・・・・・・・・・

 資料にも、COMの新人賞のことが書いてあったので、書庫からCOMをぺらぺら見ていると、「かぎっこ集団」というマンガが見つかりなつかしく見た。
 藤子不二雄氏が、解説評論をしていて楽しい。

 



 河合隼雄氏は、彼女のころをこのように書いている。
 ここはよくわかる、私も自閉気味だったからだ。








 そんなわけで、かぎっこ集団を読み返す。
 絵がうまいな。

 自分の世界にとじこもるのは決して悪い事ではない。
 個性的で瞬発的なアイデアを生む才能がでてくる可能性もある。
 昔はさんざん批判されたけれど、今や日本のマンガやアニメは世界を席巻している
 ではないか。
 世の中を上手にわたるだけが良き手本というわけではない。
 いろいろな人がいてこそ、日本もまた成熟するのだと思う。
 かつての、竹宮恵子のような自閉の少女が、未来の子どもたちを救い、
 頭の良い◎◎大学に行って官僚になった優等生の子ども達が日本を「固く」させて
 時代に追いつけないということを考えると、興味深いものがある。






 





















資料
竹宮 惠子(たけみや けいこ、1950年2月13日 - )は、日本の漫画家。徳島県徳島市出身、福岡県朝倉市在住[1]。女性。1980年頃、竹宮恵子から改名。

2人姉妹の長女として徳島市に生まれる[2]。5歳頃から日常的に漫画を描くようになるとともに[3]、貸本屋に通いつめて石ノ森章太郎から小島剛夕といった劇画まで選り好みせず読む子供時代を送った[4]。小学1年生の時に描いた絵日記にはグランドピアノが既に立体的に描かれていた[2]。小学3年生の時に北島町へ移り住む[5]。
中学時代から本格的に描き始め、1965年、石ノ森の『マンガ家入門』と『龍神沼』を読み大きなショックを受け、石ノ森作品を端から読むようになる。石ノ森に「漫画を共に描く仲間が欲しい」と手紙を送ると、石ノ森から紹介された漫画を描いているグループの人達から手紙が届くようになり、「石森ファン筆頭」の同人誌『宝島』グループに参加し[6]、執筆を続ける。修学旅行で上京した際には、グループの仲間に連れられて石ノ森の自宅を訪れている[7]。後に「永井豪が男性の一番弟子なら、私は女性の一番弟子で優等生」と語っている[8]。
1967年、「ここのつの友情」で『COM』月例新人賞に佳作入選。1968年1月、「りんごの罪」が『週刊マーガレット』の新人賞に佳作入選しデビュー。同年4月、親の説得により徳島大学教育学部(現鳴門教育大学)美術科に入学し、学業と平行して『COM』等への投稿を続ける。この頃『COM』の縁で手塚治虫から『週刊少女コミック』の編集者、山本順也を紹介される。学生運動に参加して漫画を描かない時期もあったが、徳島まで出向いてきた山本に「何か新しいことがしたい」と『週刊少女コミック』で描くように説得され上京を決意する[9]。1970年、『週刊少女コミック』に『森の子トール』の連載を始め、5月に大学を中退し上京。10月には、講談社の編集担当が原稿見せに上京していた萩尾に一日だけの臨時アシスタントを依頼し派遣されて知り合った萩尾望都に声をかけて[10]、のちに、竹宮のマネージャー兼原作者となる友人の増山法恵と萩尾がペンフレンドだったこともあり、その導きで東京都練馬区南大泉の増山宅の斜め向かいの共同アパートで同居を始め、増山ら友人達から様々な文化的知識を吸収した。そこに増山がサロン化を計画して、2人にファンレターを出した人の中から選んで声をかけ、同年代の女性少女漫画家を集め[11]、大泉のアパートは「大泉サロン」、集まったメンバーは後に「24年組」と呼ばれた[12]。このグループで、45日間のヨーロッパ旅行にハバロスク、モスクワ周りで行き、竹宮はじめ24年組がヨーロッパを舞台にした漫画を描く原動力になった[13]。
上京後、思うように作品が描けないスランプに3年間ほど陥り、そのために自律神経失調症を患い、体重が40kgを切ってしまう。しかし、この状態を克服するために休養ではなく今まで以上に漫画を描くという手段を選び執筆を続け、1974年には『ファラオの墓』がヒット[2]。また、稲垣足穂などを研究し耽美的なものが受けると読んだ[14]竹宮は、7年間にわたる構想[2]を発表するべく1976年に『風と木の詩』の連載を開始。少年の同性愛を耽美に描き、漫画界に衝撃を与えた。
1977年には、『月刊マンガ少年』にてSF作品『地球へ…』の連載を開始。少女漫画家が少年漫画誌で連載を持つことは当時としては画期的であった。1978年、『地球へ…』が第9回星雲賞コミック部門受賞。1980年、『風と木の詩』『地球へ…』で、第25回小学館漫画賞を受賞。同年、『地球へ…』が東映によってアニメ映画化された。
1997年、エルメスのフランス本社の社長から依頼され、エルメスの社史を漫画にした『エルメスの道』を発表。本作が京都精華大学マンガ学部長であった牧野圭一に評価されたことがきっかけとなり、2000年に京都精華大学マンガ学部の教授に就任[4]。漫画家として日本初の大学の専任教員となった。また原画保護のために、精巧な複製原画である「原画´(ダッシュ)」の制作研究も行う。2007年、『地球へ…』が発表から30年の時を経てテレビアニメ化された。2008年には同学部の学部長に就任[15]。鎌倉市の自宅から新幹線で大学に通い、週の半分は京都にいる多忙な生活を送っている[3]。後に妹夫婦の住む福岡に移住し、同居生活を送る。
2013年11月、同校の次期学長に選出されたことが明らかにされた[16]。就任は2014年4月、任期は4年。