Will Adams Festival      「葉隠れ」の美学も |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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日本名、三浦按針。
家康との関係を調べる。歴史はおもしろい。

徳川家康×エリザベス女王。


しかし、それにしても、西洋人の日本のサムライに関する、興味の深さは、大変なものがある。
日本人は、「はかなさ」の美学というものが私たちの遺伝子にあるせいか、強いものも、弱いものも、いつかは誰しもが滅びる・・・と考えるが、西洋人はそう考えないのかもしれない。

 強く強く強く・・・・・・・・。西洋。


日本のサムライの強さや、格好良さだけではなく、「葉隠れ」の美学も、勉強してもらいたい。

それだけでも、残虐で、永遠にとりとめのない宗教戦争・宗教対立から、ひとつ上の次元へいける可能性が出てくると思うのだが。




諸行無常の思想があれば、樹々も草花も鳥も空も雲も川も湖も人も動物もみんな、「ありがたい」存在だということが、「もったいない」存在だということが、感覚的にもわかるのではないだろうか。









WIll Adams Festival 2015








○資料  三浦按針。
ウィリアム・アダムス(英: William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。





イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。翌1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲けている。しかし、軍を離れてバーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。
リーフデ号の航海[編集]

17世紀のエングレービング。左から右方向にフライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホープ号
航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。
ホープ号("希望"の意・旗艦)
リーフデ号("愛"の意)
ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)
トラウ号("忠誠"の意)
フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)
司令官のヤックス・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。
しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。
日本漂着、家康の引見[編集]

1707年の日本の地図と将軍との謁見の図
関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報した。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。
結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招く。