硝子の少年  山下達郎はすごい・・・ |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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そして、私の好きな松本隆も・・・このふたりで作った歌とは・・知らなかった。










◎資料 山下達郎
エピソード[編集]
ニックネームは「たっつぁん」、「クマ」。「クマ」は中学時代から20代にかけての呼び名。歩く姿が北海道土産のシャケを背負った木彫りの熊に似ているからというのと、考えごとを始めると貧乏ゆすりを始めて落ち着きなく歩きまわる様子から[注 16]。
「本を出さない、アリーナで公演をしない、テレビに出ない」ことを公言している。ただし、『ON THE STREET CORNER』以降、自身のアルバムや、ビーチ・ボーイズなど自身と関わりの深いアルバムでは、ライナーノーツを手掛けている。他に、雑誌『レコード・コレクターズ』の「私の収穫」にもコレクターの一人として登場している。また、日本武道館以上の規模の会場での公演を行わないことについては、音響効果に疑問を持っていることと、末席からオペラグラスで見るようになるのは観客に失礼だからという。2010年10月31日のワーナーミュージック・ジャパン創立40周年記念イベント「WARNER MUSIC JAPAN 40th. Anniversary ~100年MUSIC FESTIVAL~」で初めて武道館のステージに立ったが、後日自身のラジオで「この間、生まれて初めて武道館の真ん中で自分の歌を、生まれて初めて歌いましたが、武道館は“最近はもう小さいよ”とか“音が良くなった”とか、事実そうなんですけど。でも、私、どうもパイプ椅子というのが、どうしてもダメなんですよね。あとは、武道館のスタンドのプラスチックの無機質性というか。あそこで、3時間半やったら、ほんとに疲れます。お客さんが。だから、やっぱりダメかなって、思いました」[56]と語っている。一方、大阪フェスティバルホールには思い入れが強く、旧ホールの建て替え計画が発表された際には「ここを壊すのはカーネギーホールやオペラ座を壊すのと同じこと。愚行です」と話していた。そのため、閉鎖期限の2008年12月には17・18・27・28日の計4日間、同会場でライブを行っている[注 17]。東京では中野サンプラザに加え、1999年からはNHKホールもツアー会場として使用。また、ステージでは「音の厚みやコシが違う」との理由から、マイクはコード接続型を使用している。
エレキギターは、フェンダー・テレキャスターをメインで使用。テレキャスターは1970年代初期の製品で80年代初めに友人から6万円で譲り受け、ギターテクニシャンの山本健司[注 18]によって調整されたホワイトアッシュ・ボディ、ローズウッド指板という仕様。ブラウンにリペイントしており指板はブラック。ストロークの邪魔にならないようにピックアップ・セレクターのツマミは取り外され、弦高も低く調整している。またピックアップは出力を上げている。使い始めて1年経った頃から鳴りが良くなり、木製部分以外はすべてリペアしながら使い続けているが未だにコンディションは変わらず、レコーディングやライブ全てにおいて現役とのこと。近い音のものをサブに購入したり、フェンダーに依頼して完全なリストア・モデルを作ってもらってみたが、やはりこれには敵わないと語っている。ただし弦高を低くしている為、低音が出にくいという欠点があり、ソロ演奏用としてメープルウッド、ホワイト指板のテレキャスターも使用頻度が高い。ストラトキャスターはニューヨークで300ドルで購入し、友人所有のストラトキャスターとネックを交換している。
大好物は鰻、蕎麦、ラーメン、湯葉の味噌汁など。なかでもラーメンは、有名店を巡ったり、コンビニで有名店監修のカップ麺をついつい衝動買いしてしまうほどだという。一方、嫌いな食べ物はナス、ピーマン、タマネギの味噌汁、鍋料理、生牡蠣、ゴーヤなど苦味の強い物(よってコーヒーも嫌いで、普段から紅茶や緑茶よりも、はと麦茶やそば茶を飲んでいる)、甘い物(全般ではないが、コース料理でもデザートはあまり口にしない。特に、チューインガムやチョコレート、菓子パン類は、実家が菓子屋だった影響から全く受け付けない)。基本的に間食をしないため、体重管理は比較的スムーズだと語っている。
オフや仕事の合間、半身浴の片手間には読書をしている。最も好きな作者は樋口一葉で、日記を含め全作品を読破している。なかでもお気に入りの作品は「にごりえ」で、数え切れない程読み返しているとのこと。以前には浅田次郎やレイ・ブラッドベリの名を挙げていた時期もあり、「若い頃、本よりもレコードに金をかけていたので完全に読書コンプレックス」というが、中学で洋楽に目覚めるまでは読書少年だったこと、ドロップアウトした高校・浪人時代、学校に行かない代わりにビル清掃や運送業のバイトの合間、ジャズ喫茶に入り浸り様々な本を読み漁るなど、音楽やレコードに関する資料に限らず、文献から知識や情報を得ることには非常に貪欲である。その範囲は、古典から海外SF作品、評伝、評論本や歴史書、哲学・思想書に至るまで幅広い。これについても「博識でも何でもなく、サブカルチャーから出てきた人間が、評論家を標榜する輩と渡り合うには何らかの理論武装が必要だったから、否応なしに知識を詰め込んだだけ」と述べる一方、ドロップアウトした高校から浪人時代に、学校では学べなかった様々なものを吸収できた、として「自分自身にとって、一生の財産になっている」とも語っている。ただ、植物や花、魚の名前は覚えられないという。
「例えば何処かに行って、目的地の途中で人に道を尋ねたり、デパートのフロアがわからないから受付で尋ねる、なんてことが出来ない、絶対に無理」だという。そのため、初めての場所に行く際は、事前に下調べを念入りに行う。
子どもの頃から漫画も大好きで、手塚治虫ファンであることを公言しており、『鉄腕アトム』はコマ割りからセリフまで覚えているという。ちょうど小学校に上がる年(1959年)の3月17日に『週刊少年マガジン』が創刊。創刊号(1959年3月25日号)から『ハリスの旋風』(ちばてつや)連載の途中まで定期購読していた。『マガジン』で印象に残っているのは『13号発進せよ』(高野よしてる)や『チャンピオン太』(原作:梶原一騎、作画:吉田竜夫)、『風の石丸』(白土三平)などで、最初に感動した作品は『ちかいの魔球』(原作:福本和也、作画:ちばてつや)だという[5]。最近のお気に入りには『けいおん!』、『もやしもん』、『のだめカンタービレ』などの作品を挙げている[57]。毎週読んでいるコミック雑誌は『ビッグコミック』、『ビッグコミックオリジナル』。人に勧められて読むことが多い。
高校・浪人時代、暇さえあれば名画座などに入り浸り、映画を観ていたという。また、一時は戦前・戦後問わず多くの日本映画を観ていた時期があった。現在でも暇をみつけてレイトショーなどに行っており、ツアー中も滞在先に邦画(任侠映画など)のDVDを持ち込んで観ているという。邦画で好きな映画監督は小津安二郎や山中貞夫で、『人情紙風船』を人生で一番の一本に挙げている。ただ、黒澤明については「大監督であることは全く否定しないが、作品に漂う独特の説教臭さが自分の好みではない」という。洋画作品で若い頃好きだったのは、ジョン・フォードの『コレヒドール戦記』や、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』[5]。2012年のインタビューでは、気に入った作品としてマーティン・スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』とウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』を挙げている。
絵画や美術についても知識や造詣があり、特にアメリカン・モダンアート、ポップアートや印象派絵画、ロマン主義絵画などは展覧会にも出かける。こうした興味や関心は、自身のシングルやアルバム・ジャケットに反映されている。
芸事好きだった叔父の影響もあり、子どもの頃からの落語好き。特に古今亭志ん生が当時からのお気に入りで、演目のさわりを物まねできるほどに聴きこんでいる[注 19]。そのため、今でもホール落語会などへ出かけることもあるという。実際に小学生の頃、そんな様子を見た叔父が、懇意にしていた柳家三亀松門下への入門を画策したが、父の猛反対で立ち消えになった[58][注 20]。ラジオ出演時の語りやステージ上のMCなどに、その片鱗が窺える。他には春風亭柳昇、古今亭圓菊、現役では鈴々舎馬風や三遊亭圓歌なども好んで聴いており、最近のお気に入りとしては春風亭昇太[59]、柳家喬太郎を挙げ「(最近の落語家では)新作落語の人だね。古典は好きだけど、若手の古典は面白くないし、この歳になったらもう、録音で残っている(名人上手の)ものだけで十分です」とも答えている[11]。演劇や文楽などにも造詣があり、公演に出かけていくことがある。ちなみに毎年、国立文楽劇場のオリジナルカレンダーを購入している。
一時は好角家としても知られていたが、近年は話題に出る事が少なくなった。ただ、子どもの頃から相撲やプロレスはテレビ観戦で慣れ親しんでいたため、現在でも好んでいる。ベスト・アルバム『OPUS』のマスタリングが一段落した合間を縫って、8月10日に両国国技館で開催された「WWE Presents スマックダウン・ワールドツアー2012日本公演」を観に行った[60]。
1980年代後半頃には、プラモデル作りも熱心な趣味の一つだった。とりわけ第二次世界大戦時の爆撃機の模型を集中的に作っていたという。ただ、エアブラシ塗装は屋外で行うため、人目につくことや「庭が汚れる」と家族に嫌がられることから、現在は遠ざかっているとのこと。
子どもの頃に膝の関節炎を患った影響もあり、運動音痴を公言している。また、かつてはヘビースモーカーで、キャメルを愛煙していたが、1989年頃から禁煙している。酒豪でもあったが、今はワインや日本酒、スコッチ・ウイスキー、食後酒のグラッパなどをほどほどに愛飲し、ビールは全く受け付けないという。一方、2008年にライブ活動を再開させた頃から体力づくりとダイエットの目的で1時間程度のウォーキングを始めている。また、パワーブリーズ(呼吸器や横隔膜の訓練器具)を使用する、「休肝日」を設けるなど、日頃からの体調管理には気を遣うようになっている。昔から愛用している滋養強壮剤として「キヨーレオピン」を挙げる事が多い。
昔からパワーのあるエンジンの小さい車を好み、若い頃はサニークーペなどに乗っていた。やはり最高峰はポルシェだが、その扱いの難しさと2シーターでは家族を乗せられない為、諦めているという。プライベートでは、1990年頃からBMW320iに乗っている。2011年のインタビューではETCも取り付け、今後も乗り続けたいと語っている[61]。
コンピュータに関しても知識があり、1982年辺りから16ビットのパソコンキットを組み立て、MS-DOS用ゲームを楽しむなど、初期からの愛好者。基礎的な知識があった事や坂本龍一のソロ・アルバム制作現場に足繁く通って見学していたことから、コンピュータ・レコーディングへの移行も大変だったが比較的容易ではあったという。
レコード・コレクターの一面として、バーゲンセールの時には、掌側の部分にゴムの滑り止め加工がしてある軍手を使用し、もの凄い速さでレコードを選別しているという証言があるが[62]、これはシングル盤を最も買い漁っていた1980年代の頃の話で、現在は専ら海外のネット・ショップやオークション等を利用しているという。