自然界の法則。。。。
私の好きな詩に、こんなのがある。
ちいさな蠅よ/おまえの夏の戯れを/私の心ない手がふり払った/私もまたおまえと同じ蠅であり/おまえもまた私と同じ人間ではないのか/なんとなればある盲目の手が/わたしの翼をふり払うまで/私も踊り、飲み、歌うのだから
ウィリアム・ブレイク
いつもこの詩を、朝の散歩で思い出す。
その散歩道には、蟻がたくさん、いるからだ。
蟻と蠅の違いはあるけれど、同じようなものだと思う。
私もなるべく蟻をつぶさないようにして、歩いているつもりだけれども、
やっぱり、かなりの蟻の数だと、無意識につぶしてしまっていることだろう。
それに、そこを歩いている人の数もまた、年間で通算すれば、膨大な数になる。
つぶされている蟻の数もまた膨大だろうと思う。
蟻にしてみれば、仲間が人間の足に踏み殺されて、その悲しみはないだろうけれども、
種族的には、危機感は感じて、次から次へと、必死に卵を産み、働いて女王蜂に餌を運ぶ事を
続けるだろう。(この上のクリップのように、生存すること、餌をとることは、すさまじく大変な行為)
生命体の、力は、恐るべきものだと思う。
「個体の命」、それよりも、まずは、「全体の種族の命」が存続するように、DNAのプログラミングが何億年もかけて、設計されているのだと思う。
そこに比較すると、人の「個体の命」は、この21世紀になり、ますます、増殖して、
「脳の反乱」はすさまじい。
「脳の反乱」で、「種族全体の命」が、おびやかされているとも言える。
私は科学などあまり詳しくないし、適当な妄想空想力にて、この記事を書いているのだけれど、
「脳の反乱」こそが、人類のこれまでの進化の歴史のなかでの、最大の事件ではないかと勝手に思っています。
「個体の命」がどんどん、重みを増して、その「個体の命」を守るためであれば、その他の「個体の命」などどうなってもいい。
そんな「狂った脳の反乱」もまた、ある。
また、その他の「個体の命」を救おうとして、自分の「個体の命」を、犠牲にすることさえ、「脳」はするのです。
わがままな遺伝子という言葉があるけれども、脳だってかなりのわがまま。
遺伝子は完全に、種族保存の法則で行動するだろうけれど、脳の場合は、まったくの不条理な行動さへもとることができる。
花や蝶や、森の木々のように、春がきて花をさかせ、夏楽しんで、秋に種をまいて枯れ落ち、そして、大地の肥やしのようになるそんな生き方。
昔の人間って、そんな生き方をしていたんだと思う。
現代人が、それを忘れているだけ。
空から、大きな足が降りてきて、私たちを踏みつぶす。
自然の猛威の前には、私の足と蟻たちの関係と同じ関係が、人間にもあてはまる。