育ての母は言った「お前は誰に似たんだろうね」… 新生児取り違えで入れ替わった2つの人生 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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「戻れるものなら戻りたい」-。昭和28年、出生直後に産院で別の新生児と取り違えられ、本来と異なる人生を余儀なくされたとして、都内の男性(60)と実弟3人が産院側に賠償を求めた訴訟で、東京地裁は11月26日、3800万円の賠償を命じた。生活保護を受けながらテレビさえない6畳の部屋で共に育った家族。片や、家庭教師をつけ兄弟全員が大学へ進学した「本当の家族」。60年近くも“別人”として生きてきた男性が、2つの家族への思いを語った。

届いた写真に「マジかよ」

 「われわれの訴えが認められて感謝している。今の思いは、整理というか…。まだ動揺している。正直言えば、昭和28年3月30日に時間を戻してもらいたい」

 東京地裁が取り違えを認定した翌日の27日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見した原告の男性は、胸の内を明かした。

 男性が生まれたのは昭和28年3月30日午後7時17分。東京都墨田区の「賛育会病院」でA夫妻の長男として誕生した。一方で、13分後にB夫妻の間に四男が誕生。この2人が何らかの理由で取り違えられ、男性は、B家の四男として育てられることとなった。
取り違えが判明するきっかけとなったのは、男性の実弟3人が平成20年に起こした訴訟だ。

 男性と取り違えられた男児は、A家の長男として育てられたが、実父の介護に長男だけが協力的でなかったことなどから、弟らは血縁関係を疑うようになり、長男とA夫妻の間に親子関係がないことを確認する訴訟を東京家裁に起こした。

 この訴訟のDNA型鑑定で、長男がA夫妻の子供でないことが判明。弟らは調査会社に依頼するなどして、「賛育会病院」で同じ日に生まれた男児を調べ、原告の男性を探し当てた。

 取り違えを知ったときの気持ちを問われると、男性は「『そんなことあるわけない』というのが本音だった。病院が間違いを犯すということがあり得るのかなと思った」と振り返った。

 半信半疑だった男性の元に、実の弟から手紙が届いたという。写真が2枚同封されていた。

 「『マジかよ』という感じだった。実際に写真を見ると、自分の若い頃にもこんな写真があったなと思って…。(弟に)1回会わなきゃまずいかなという気持ちになってきた」

 その後、男性と弟3人のDNA型を鑑定。99・99%の確率で遺伝関係が存在するという結果だった。

 「(弟から)電話で『すごい結果だった』といわれた。『99・』の後に9が13個つながったといわれた」

 男性は当時の心境を問われ、「真実が分かったことで、受け入れざるを得ない」と表現した。

育ての母が抱いていた「違和感」

 還暦を間近に控えて判明した真実だったが、実は、育ての母はある違和感を口にしていた。

 「小学生のころだったか、母親に2回か3回、言われたことがあった。『(B家の)長男は父親に似ていて、次男は私に似ている。お前は誰に似たんだろうね』と」

 「兄たちは足の指がすぼまっているのに、私の足は広がっている。だから母親からはよく『お前は原始人の足だ』とからかわれた」

 そのほかにも、兄弟の中で男性だけがニキビに悩まされ、体格ががっしりしているなど「何でだろうなというのはずっとあった」という。

 入れ違いが判明したとき、すでに実の両親は他界。弟らから見せられた両親の写真に、数カ月間は涙が止まらなかった。

 男性は「やはり会ってみたかったという思い。できれば生きて会いたかった」と、静かに語った。

 一方、弟らから聞く両親の話には、不思議な共通点も感じたという。

 「父親は誠実な人、母親は負けず嫌いな人だと聞いた。自分も負けず嫌いで、(この性格は)どこからきたのかなと思っていた。(弟の話に)ああ、そうなんだと思いました」
 男性が2歳の時に、B家の父が死亡。4人の子供のうち三男はすでに亡くなっており、母親は生活保護を受けながら、女手一つで原告ら3人の子供を育て上げた。

 6畳のアパートには、当時、家電製品がほとんどなく、あったものといえばラジオ程度。トイレも炊事場も共同だった。

 「テレビがないから、朝、野球の話題に入れないんですよ。辛かったですよね。なんでうちにテレビがないのかなって」

 小学校5年生の時には、担任の教諭が突然、「家にテレビがある人」「冷蔵庫がある人」「洗濯機がある人」と生徒たちに尋ね、挙手させたという。

 「私のところは何もないから、手が挙げられない。いまだったら多分、嘘でも適当に挙げるんでしょうけど、子供でしたから…。なんだか恥ずかしい、後ろから笑われてるんじゃないかっていう気分になるんですね」

 近所の住民から向けられた視線は、今でも忘れられない。

 「周りの大人は結構、(自分を)冷たい目で見てましたね。今でも顔を覚えています。今から思えば、親兄弟に似てないっていうことだったのかな」

 B家の2人の兄は中学卒業後、すぐに働き始め、男性も家計を助けるために中学卒業とともに町工場に就職。学費を稼ぎ、仕事の傍ら定時制高校へ通ったが、大学進学は断念した。

 一方、教育熱心だったというA夫妻は子供たちに家庭教師をつけ、4人の子供はいずれも大学や大学院へ進学。弟3人は大手企業へ就職した。

 男性は「60年間、大した苦労をしたとは思っていない」としつつも、両家の大きな「差」に複雑な思いをのぞかせた。

 「4人全員大学に行かせてもらったと聞いた。それに比べて私の育った環境はかなり苦しいものだった」

 「私も家庭教師が付いていれば大学まで出してもらえただろうなという思いもある」

 今もトラック運転手として働く男性は「人見知りが強く、人前に出るのが苦手で、一人でできる仕事に行き着いた」と打ち明ける。

 母親や兄たちが働きに行く中、一人で過ごすことが多かったという男性。「少なくとも、育った環境に父親がいたら変わったと思います」と話した。

2つの家族への感謝

 再会することがかなわなかった実の両親と、苦労しながら育ててくれた母。男性は「実の両親には、この世に生を受けたということで感謝している。何もお返しができなかった」「育ててくれた親は、できることはやってくれたと思う」と感謝の言葉を繰り返した。

 現在は、B家の兄とともに暮らし、食事の面倒などを看ている。

 「これからというのは、分からない」としつつも、「今までやってくれたことに対して、できることがあればやりたい」とも話した。

 一方、A家の弟たちについては「五十何年生きてきて初対面で、兄弟なのに不思議だった」。今では、月に1回程度、酒を飲むなど交流を深めているという。

 弟からは「あと20年は生きられるから、これまでの分を取り戻そう」と声をかけられた。男性は「うれしかった。全て終わったら、一緒に温泉にいきたい」と笑顔を見せた。