ラヴェル - 亡き王女のためのパヴァーヌ :辻井伸行 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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資料
1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会において作曲家として公式デビューを果たした[2]ラヴェルは、1900年から5回にわたって、有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みる。2回目の挑戦となった1901年にはカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった(この時の大賞はアンドレ・カプレ、2位はガブリエル・デュポン)。1902年、1903年は本選において入賞を逃し(1902年の大賞はエメ・キュンク、1903年はラウル・ラパラ)、1904年はエントリーを見送った。翌1905年は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』、『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは音楽批評家の間に大きな波紋を呼び、フォーレをはじめ、ロマン・ロランらも抗議を表明した。さらに、この時の本選通過者6名全てがパリ音楽院作曲家教授であり審査員シャルル・ルヌヴーの門下生であったことはコンクールの公正さの点からも問題視された。この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となった[3]。