音楽。
ここちよいリズムに音調。
心の中の井戸のなかまで、その旋律は染み込んでくる。
その時、人々は、普段の生活から少しのあいだ逃れることができ、自分が人として、
たとえ草木や、動植物よりも長く生きることができ、宇宙の永遠の時間から比較すると一瞬に等しい寿命であっても、それが哀しいとか、さびしいとか、残念とかいう気持ちを、これらの音楽は凌駕して、まるで、天国から聞こえてくる完璧なる聖なる音律のようにして、歴史のなかに埋もれて行く人々の魂を救済してくれる。
音楽は、魂の調律。
それでは、絵は?
もろちん魂の救済なのだが、絵は、無意識のなかにある自分のトラウマやら、あこがれやら、畏れやら、畏怖の念、そんなものすべてを絵を見ることのなかに、反映している。
だから人は同じ絵を見ても、違う感想をもち、違う感銘を絵からもらうことになる。
あるいは、人類は常に進化しつづけているわけで、脳は新しいものやことに対しては敏感である。
絵もまた、進化しつづけ、人の脳と進化とともにあるのではないだろうか?
一世紀前に画廊や展示会にて出品禁止や、展示禁止になった裸婦の作品などもまた、今は、親子連れの人々の目に美しい裸婦としてあたりまえの美しさとして受け入れられるようになった
絵は無意識の世界の自分の発見なのかもしれない。
それでは、文学は?
神話や伝説から始まったと思われる物語のパターンなどから、人の言葉、特に耳から物語を聞いていた昔の人々の時代を経て、今や、人々は黙読にて、脳のなかで小説などを楽しむ。
言葉という人類をここまで発達させてきたいわば意識の最高峰の言葉を、ピンセットで、押し花をきれいにつくりあげていくようにして、作家は作品をつくりあげていく。
あくまで、意識の上で、顕在化の上で、物語の絹糸を縦横に織り上げて行く。
小説は意識の世界のなかでの自分の発見。
あっこれは私のことが書いてある、と思わせること、それはひょっとすると、幻想のなかの普遍性ということなのかもしれない。