ショパン/ワルツ第19番 イ短調(遺作)CT224/演奏:ブルーノ・リグット |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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以前、トスカーナを主題にした映画で、ポーランド人が、イタリア人の家をつくるときの人夫役で数人出ていた。
その中のひとり少年が、その家の大屋の娘と恋仲になる。・・・

貧しく、イタリア人の下の階層というイメージでした。

ところで、このショパンを生んだポーランド。
私の時代では、「灰とダイヤモンド」という傑作シネマもありましたね。



以前テレビで、日本犬を飼うことがブームになっているという番組がありましたが、親日なんですね。・・koiという名前の犬がいて笑えました。









 

意外な親日国『ポーランド』 熱烈な歓迎に亡命した日本人芸術家も

ロケットニュース242010年01月13日10時16分




ヨーロッパの東、位置的にはドイツの東隣に位置する国、ポーランド。歴史的にはドイツとロシア等から何度も侵略され、大戦で街は壊滅的な打撃を受けた旧共産主義の国。多くの日本人にとっては正直馴染みのある国ではないだろう。しかしポーランドでは日本の文化が非常に人気が高いという噂を最近よく耳にするため、この目で確かめてこようと記者はポーランドの首都ワルシャワへ飛んだ。
正直、記者にとってポーランドのイメージは旧共産主義国で西ヨーロッパの国々に比べてまだ乏しい東欧の一国というイメージだった。しかし、ワルシャワの街に着いてみると想像とは違い、街はきれいに整備され近代的な建物が立ち並び、人々も西ヨーロッパとほとんど変わらぬ豊かな生活をしている。ポーランド人に言わせるとポーランドは東欧ではなく中欧なのだという。ワルシャワに来てみてそれは正しいと納得した。
ワルシャワの街は大戦で破壊されたが50年代には市民達の手によって元の中世の街並みが修復、再現され旧市街は1980年に世界遺産に登録された。
ポーランドは非常に教育熱心な国で、大学進学率は約70%にも及ぶという。日本で言うところの東大にあたるワルシャワ大学に日本学科があるということで記者はそちらにお邪魔することにした。ポーランドの若者の間では日本語を学ぶことが流行していて、ワルシャワ大学の日本学科に入ることはかなり困難で狭き門なのだという。そのため学生達は非常に勉強熱心で3,4年生にもなると日本語はかなり堪能で漢字の読み書きも大分できるという。日本学科では日本語だけではなく日本の歴史、文化、人々、宗教など日本のあらゆることを勉強し、学生達は今の日本の一般の若者よりも日本のことについて詳しい。
日本学科の先生の一人で日本の古典文学、俳句の研究、翻訳者でもあるアグニエシュカさんが授業の後自宅に招待してくれ、そこで貴重な話を沢山聞くことが出来た。彼女が言うにはポーランドの親日は何も最近始まったことではなく昔からのことらしい。ワルシャワ大学の日本学科は戦前からあり、戦時中は先生の一人が日本のスパイだという疑いをかけられ逮捕されたこともあったのだという。彼女は日本の芸術家達がポーランドに来た際はお世話をしたりもしているらしく、日本の舞台演劇、歌舞伎、舞踏、前衛芸術はポーランドでは根強い人気があるらしい。中にはあまりのポーランドでの熱烈な歓迎に日本に戻るのが嫌になり亡命してしまった日本人芸術家もいるのだとか。どうやらポーランドでの親日感情、日本人気は一過性のものではなく根強いものであると強く感じた。
そして、もちろん若者の間では他のヨーロッパの国と同じように日本の若者文化が大人気で、ワルシャワ滞在中偶然にも日本からDJを招いてジャパンナイトなるクラブイベントが行われていたので記者はそちらも覗きに行ってみた。パーティー前には日本の若者カルチャーについてのフォーラムが開かれ、日本のアニメ、ファッションなどについて素晴らしさを人々が語り合い、その後のパーティーでは日本のアニメのビジュアル、カラオケルーム、日本舞踊のパフォーマンスもあり多くの若者達がこのジャパンナイトを楽しんでいた。日本人DJもポーランドの人達の歓迎に大喜びで、是非また来たいと話していた。
今回のポーランド訪問で噂は本当だったと、いやむしろ噂以上の親日ぶりに記者も驚いた。実際日本人である記者もポーランドの人達の手厚い歓迎に感激した。勤勉で真面目で楽しくやさしく面倒見の良いポーランドの人達が大好きになりまた訪れたいと思っている。これを読んでポーランドに興味を持った方には是非とも一度ポーランドを訪れてポーランドの良さを肌で感じていただきたい。



Bruno Riggtto 資料

イタリア人の父とフランス人の母の間にパリで生まれる。パリ音楽院でリュセット・デカーヴにピアノを、ジャン・ユボーに室内楽を学び、1962年にピアノで、1963年に室内楽でプリミエ・プリを獲得。その後、これまで弟子をとらなかったサンソン・フランソワの唯一の弟子となり、ロン=ティボー国際コンクールのほか、1963年にチャイコフスキー国際コンクールで入賞し、演奏活動を開始する。これまで、カルロ・マリア・ジュリーニ、ロリン・マゼール、ジョルジュ・プレートル、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、クルト・マズア等の世界的に著名な指揮者と共演、パリ管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団、ベルギー国立管弦楽団などのオーケストラと共演している。また室内楽でも積極的に活動し、アイザック・スターン、ムスティスラフ・ロストロボーヴィッチ、バーバラ・ヘンドリックス、ヨーヨー・マ、ジャン・ピエール・ブーレーズ、ピエール・アモワイヤル、パトリス・フォンタナローザ、アルト・ノラス等と共演し、絶賛された。