小山明子、気丈に舞台…大島さん最期の言葉は、自分を呼ぶ時の「ママ」 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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映画監督の大島渚さんが肺炎のため80歳で死去して一夜明けた16日、17年に及ぶ献身的な介護を続けてきた妻で女優、小山明子(77)が、都内で主演舞台の初日を迎えた後、会見した。大島さんの最期の言葉は、自分を呼ぶ時の「ママ」だったことを打ち明けた小山。涙ながらに「無事に舞台を務めたわよと言いたい」と今は亡き夫に向け、女優として再び力強く踏み出すことを誓った。(サンケイスポーツ)

 東京・西池袋の東京芸術劇場。小山は主演舞台「女のほむら」(20日まで)の初日を務めた後、舞台衣装の着物姿で会見した。

 「大島は私のことをいつも『ママ』と呼ぶんです。最近はほとんど会話はできませんでしたが、亡くなった日の朝、大島は看護婦さんに『ママ』と言ったそうです」

 1960年の結婚から53年、脳出血で倒れた96年から17年、自分を支えてくれた小山を呼んだのが大島さんの最期の言葉だったという。

 小山によると、ここ1カ月ほど、神奈川・藤沢市の病院内にある救命救急センターで治療を受けていたが、危険な状態はずっと続いていた。そんな中、1週間ほど前、小山が「ねえ、パパ。神様に最後のお願いをするとしたら、おうちに帰りたいか、おいしいものを食べたいか、お酒を飲みたか、どれ?」と聞いたという。

その返事は「飲みたい!」。さっそく主治医の了解を得て、お酒を唇に湿らせた。それが最後の夫婦の会話になった。「仕事も夫としても素晴らしい人でした。だから支えることができたし、息子2人や家族、友人の支えも大きかった」と涙で胸中を語った。

 「女のほむら」の主演は大島さんも了解済みだった。この舞台は幕末、明治を背景に、毒婦と呼ばれた実在の人物「高橋お伝」の物語。不治の病にかかった夫を介護するため体を売り、最後は苦しむ夫や恨みに思う男を殺してしまうなど女の業と情念が全編を貫く。

 セリフの中には「命ある限り、妻として面倒をみよう」など、現実と重なる部分も多い。しかし、小山を含め3人でお伝を演じる珍しい舞台に気負いもない。上演前に「夫の治療費を稼ごうと体を売り、献身的に介護する姿は純愛。その生きざまを見せたい」と語ったとおり、舞台に限れば20年のブランクをまったく感じさせない演技だった。

 大島さんが最初に倒れてから4年間、介護うつに。何度も自殺を考え、4回も入退院を繰り返したのも今は昔。医師の指導によりリフレッシュを心がけ、水泳やガーデニングを楽しむようになって、全快した。

 「大島を看取ってから舞台の初日を迎えられたのは、大島が私のためにそうしてくれたのだと思います」。その言葉に感謝の思いがあふれた。



 若い頃は、映画研究会でよく彼の作品を見たのは、当時は、学生運動が下火になっていたとはいえ、まだまだ学生のストライキや、セクト同士のぶつかりあいが、ありましたが、その影響下、先輩からいろいろ、大島渚の作品を薦められたからです。

 神奈川大学と早稲田のセクトがぶつかりあって、学生がひとり亡くなったのもこの頃でした。

 私はでも、大島渚の映画はどうしても違和感を持ち、なじめません。

 ゴダールの作品と同じく、眼高手低です。


 感動するまでに映画作りの技術が高くないということですね。
 眼=理想は、高いのに、ものつくり=手、が低いということです。


 「青春残酷物語」「愛と希望の町」でしたか、見ましたが、そこで私なりの没・・


 でも、朝生テレビでの彼のスピーチは印象的でした。
 まったく私とは考え方は違いますが、自分の意見を、はっきりと、時には感情的に、時には怒りまくるように言葉をぶつけてくる彼のパッションは凄いなと思いました。


  当然あれだけの、カッカッカッとした興奮状態をしょっちゅう続けていれば、脳出血になります。


  それでも、◎◎主義◎◎主義とかような、頑固で窮屈な人にならずに、自在に、権力に対して発言していくことができることは、好感は持てます。
  


 資料

彼の起こした事件で私の好きな事件・・・というよりも、笑えました。


◎激情型の性格で、韓国の文化人との対談において相手方に対し暴言(「ばかやろう」発言)を吐き問題を起こしたことがある。
◎大島が結婚30周年パーティーを開いた際、壇上で祝辞を述べる予定だった作家の野坂昭如の名前を読み上げるのを忘れ、酩酊していた野坂に殴られた。このときは、持っていたマイクで殴り返す奮迅ぶりを示したのちに互いに反省文を書き送り合った)。




 個性的で、今はほとんど絶滅した「怖いオーラを持つ人」


 合掌。