あさぼらけ |   心のサプリ (絵のある生活) 

  心のサプリ (絵のある生活) 

画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
至高体験の刻を大切に
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おとといキレイな月がでていた。今夜は上弦の月だから、29日はこんな月だった。  心のサプリ (本のある生活) 

あわてて月の歌を何首か読み返す。ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば
   ただ有明(ありあけ)の 月ぞ残れる

         後徳大寺左大臣(81番) 
その他。月の歌。
今こむと頼めてかはる秋の夜のあくるもしらぬ松虫のこゑ(藤原家隆)
山の端に月も待ちいでぬ夜をかさねなほ雲のぼる五月雨の空(藤原定家)
かはらずも待ちいでつるかな郭公月にほのめくこぞのふる声(〃)
今こむと頼めやおきし郭公月ぞたちいづる有明の声(後鳥羽院)
今こむとたのめしことを忘れずばこの夕暮の月や待つらむ(藤原秀能「新古今」)
今こむと契りしことは夢ながら見し夜に似たる有明の月(源通具「新古今」)
今こんと言はぬばかりぞ子規有明の月のむら雨の空(順徳院「続後撰」)
忘れじといひしばかりのなごりとてそのよの月はめぐりきにけり(藤原有家「新古今」)
あぢきなく頼めぬ月の影もうしいひしばかりの有明の空(藤原忠良「新続古今」)
今こむとたのめやはせし郭公ふけぬる夜半をなに恨むらん(藤原良経)
長月のありあけの月のあけがたをたれまつ人のながめわぶらむ(〃)
いはざりきいまこむまでの空の雲月日へだててものおもへとは(〃「新古今」)
長月の有明の月をみてもまづ今こむまでの秋をこそまて(藤原為家)
頼めてもむなしき空のいつはりにふけゆく月をまちいでつるかな(道助法親王「続後撰」)
今こむとたのめし人のいつはりをいくあり明の月に待つらん(宗尊親王「続拾遺」)
今こんとたのめぬ夜はの月をだに猶まち出づる在明の空(洞院実雄 〃)


キュービックのように言葉がくるくる回転して常套句と、オリジナルの心の言葉が、ぴたっと組み合わされて行く。
この組み合わせはよくわからないが、たぶん、ひらがなだけでも何億もあるのだろうか。
月。空。有明の空。夜半。星月夜。あけがた。長月。夕暮れの月。夢。郭公月。
霍公、霍公鳥、郭公、不如帰、子規、蜀魂、杜鵑、杜宇、田鵑=ほととぎす=時鳥。

昔の人は自然と遊ぶのが上手かったんだナア。
ひとつのコトやモノについて、たくさんの日本人が歌をうたう。
桑原の第二芸術論みたいな妙な考え方もあるだろうが、この一つのテーマで、皆がどんどん
イメージを、エピソードを歌い込んで行くのが日本的なところだ。

小さくて、短くて、軽くて、瞬間(永遠)を歌う。いいではないか。

重たくて、長くて、深くて、垂直な思考思想思索だけが、良いというわけではないだろう。


絵画だって、西洋が遠近法のテクニックの中で、右往左往して、遂には行き詰まったときに、日本の浮世絵の「線画」にびっくりして、それから、線画という描き方が「自由」で「自在」な西洋絵画の新しい道を開いたように、相対するものは、時にはお互いが必要なのだろう。

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら
なほうらめしき 朝ぼらけかな

藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)


朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに
吉野の里に 降れる白雪

坂上是則(さかのうえのこれのり)


朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに
吉野の里に 降れる白雪

坂上是則(さかのうえのこれのり)


あさぼらけ=ほのぼのと夜が明けていくころ。
テレビもない、電話もない、もちろん携帯なんかあるわけない。
パソコンもない、ゲーム機もない、漫画本もまだない。



人の心は変わらないものだとはよく言われるけれど、環境だけは恐ろしいスピードで変化していく。
ひとつだけ言える事は、ただひとつのことだけ、つまり歌をうたうことだけに命をかけるような時代の人が書いた、歌と、気分をあちこち簡単に変えて行く事の可能な今の時代の人の発する言葉とは、まるで違うということかな。



ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
こんな気持ちをいつも女性が持ってくれていたら、と思うのは私が歳をとったからかな。
それにしても源氏の時代の男と女の心の活性するシステムはすごい。

今日はデッサン教室。
夜は遅くなりそうだ。