私が、若い頃に、買って今でも大事にしている本のひとつにカプラの「タオ自然学」がある。タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる/F・カプラ
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彼は言う。
「禅における悟りとは、万物の仏性を直接体験することである。そのもっとも身近なものが、日常生活で交わる人やものごとなのだ。このように実際的な面を強調しながらもね禅はひじょうに神秘的である。悟った人は現在を生き、日常のできごとに細心の注意を払う。そしていかなるものごとのなかにも、生命の神秘と不思議を体験できるのである。」
龐居士
「なんと驚くべき、なんと不思議な!!
われ炭をもち、水を汲む」
この中国の言葉を私たちが普段、経験している言葉にするのは容易だ。
「なんと驚くべき、なんと不思議な!!
われ雪かきをし、汗をふく」 ^^
「なんと驚くべき、なんと不思議な!!
われ茶を飲み、本を読む」
「なんと驚くべき、なんと不思議な!!
われ子守りをし、赤子を抱く」
「なんと驚くべき、なんと不思議な!!
われ歌をうたい、ピアノを弾く」
つまり、だれでもが、普段無意識にやっていることが、なんと神秘で、不思議なことだろうと、古来、先人たちも考えてきたということだろう。
またこんな言葉も、私が30代のころ読んだ。
「禅を学ぶ前、山は山であり、川は川である。禅を学んでいるとき、山はもはや山ではなく、川も川ではなくなる。しかし、悟ったあとには、山はふたたび、山となり、川も川となる」
説明することもないが、無意識と意識のことだと思う。
この場合、禅を学んだ前と後では、一見同じように見えるその人が、心のなかでは、巨大なる変貌を遂げているということだろうか?
だれしも、子供の頃は、無意識のままに生き、無意識のままに、行動する。
それで一番良いのである。
しかしながら。
学ぶことは、意識の世界だから、意識の世界がふえつづけるごとに、彼の、彼女の、無意識は苦悶するようになる。
そして、ある日。
意識的な行動や思索や思想やらそんなものがすべて、無意識のなかに包括されて、ホットするような日がくるということかもしれない。
私は悟りもしないし、悟ろうとも思わないタイプの人間だ。
しかしながら。
これらの言葉が好きで、いまでも、この本を読むと、この章だけは、じっとにらめっこしながら、瞑想するようにしているのだ。
ただ平凡な、普通の、あたりまえな、なにもない、平常の、そんな日々の時間と空間。
これこそが、奇跡の事件だとはやく、もっと深く、もっと静かに、日々味わいたい。
それが最近の願いだ。