純愛小説名作選 (集英社文庫 85-D)/著者不明
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このロングロングアゴーは敬愛する吉行淳之介氏の「純愛小説名作編」の一番最初に入っている。何回読んだろうか。独特の深みと渋みのある文体で読むたびに新しい発見があり、陽子の魅力が増していく。戦時中の女性、もんぺをはいていた女性達は皆陽子のように、ひたむきで明るくそれでいて男子を自然にたてながらも自分の強さを隠さない魅惑的な女が多かったに違いない。
安吾が戦争中の人々の顔がいかに明るかったか、生活自体はそのまま元気につながるのが庶民の知恵なんだと言うようなことを書いていたが、わかるような気もする。
そんな時代。
香戸少尉と、二瓶少尉が、軍刀などのことで何かといいわけをつくっては陽子の家に遊びに来ていた。
この頃の資料などをちらりと見ると、カメラを持って兵隊が田舎の農村で散歩をしたり、ぷらりと水を欲しいと農家の家に訪ねたりすることも多かったらしい。
陽子を気に入った香戸少尉が何回も陽子の家に遊びにいったり、陽子がいない間に訪ねて来た香戸少尉に会いたくて家を思い切り飛び出してプラットフォームまで走るシーンなどは目の前に映画のように美しくイメージが広がる。
それらの陽子の少し鼻にかかった声を香戸少尉は遠い気持ちで聞いていた。
「オルガンがありますか」
「ありますわ、ぼろオルガン」
「行って見ようかな」
「いらしてください。お待ちしています」
発車のベルがなった。
「急に事情がかわらないかぎりお訪ねします。突然こられなくなることがありますから、その時はかんべんしてください」
そうして二人は別れた。
前線出動が迫っている香戸少尉。
陽子を散歩中になんとか、抱きしめたいと、香戸少尉はくらがりの道を選び、防空壕のなかに陽子をつれていこうとするが、中から人の話し声がしてふたりともびっくりする。
「だめだよ」
「えっ」
陽子は香戸少尉の腕のなかで、子供のようにはしゃぎ気味になっていて、すっかり自分の不安定なぶざまな格好をまかせていた。
「中は水たまりだよ」
陽子は黙ったまま、笑った。
陽子はふと口をついて低く歌いだす。
語れ愛でし、まごころ
久しき昔の
香戸少尉は胸をつかれる。
このまま、陽子と平凡な誰にも命令されないそして自分も命令しなくてもいいような生活をしたい欲望に猛烈に襲われた。
今自分はひそかにかなり絶望した状態に臨んでいると思った。すると、陽子がかけがえのない人に思われてきた。彼は陽子の手をとってぐいぐい丘の下の立ち木のそばに引っぱって行くと、その立木に背をもたせかけて荒っぽく陽子を抱いた。そして唇を合わせた。すると陽子も力一ぱいしがみついて来たので、思わずふたりはかちんと歯をぶつけあってしまった。それは何か不自由な二個の物体という感じであった。やわらかく相手の身体ととけあってしまう状態になることはできない。香戸少尉は陽子の身体の向こう側に陶酔の果てがありそうに思えた。しかし、強く全身に押し付けてくる陽子の可哀想な努力にもかかわらず、こつんとした固い骨が、香戸少尉に強く感じられた。陽子の口臭がきつくにおった。そして陽子も香戸少尉の口臭をかいだ。
ここで、香戸少尉は突然の尿意に襲われる。彼が用を足してもどってくると陽子は木の下で嗚咽している。
あと一週間で自分は戦地にたつ。それを口にすることもできず、またどんな約束もできない気持ちがした。嗚咽している陽子を抱きしめると小鳥を抱いているような感じであった。しかしどうすることができよう。
陽子はというと、今自分のまわりで何が起こっているのか、わからなくなった。
ただ、香戸少尉を確かめたいだけであった。
香戸少尉は行ってしまう。
彼女は香戸少尉の襟のところをさわってみた。
今こうして確実に香戸少尉をつかまえているのに、もうきっと来ないのだわ。
汝れ帰りぬ。ああ、嬉し。久しき昔の、あら、そんなことがあるえるだろうか。
戦争が終わって香戸少尉が帰ってくる。
汝れ帰りぬ、ああ、嬉し、それはどんなに嬉しいことだろう。
しかし、陽子が生きて、その平和の日に会えるとは思えないのだ。
なぜかしらぬが、それは陽子が悲惨な死に方をした後でのことのようにしかおもわれなかった。
しかし、いつまでも戦争は続いていないだろう。
そしてその平和の日を陽子でない別の人が見て、ひょっとしたら、汝れ帰りぬ、ああ嬉し、と歌うかもしれないと思うと、何とも言い知れぬむなしさに引きずり込まれた。
三島由紀夫氏が書くように、死を意識すればするほど生の炎は燃えあがるのかもしれませんね。
時代が変わっても、女性のこころが変わる筈もありません。
ひょっとしたら、何かの「欠乏」こそが、人の魂を燃え上がらせる「燃料」なのかもしれません。
なんでもすぐに手に入る今の時代の危機はそこにあるのでしょうね。
島尾敏雄氏、自分の浮気に心を病む妻を書いて話題になりましたが、(死の棘)ドストエフスキー、プーシキン、レールモントフ、ゴーゴリなどロシア文学を耽読していますので、どことなく深くて重いテーマを得意としているようです。