朝からClassicを聞きたくなりモーツアルトを聴く。
ベートーベンとショパンとラフマニノフとリストを聴く。
jazz同様に、ライフワークとしてこのあたりは研究していきたい。
そうこうして時間がすぎていくうちに、フジ子・ヘミングの「運命の力」という本をぼんやり見ていた。
私は自分自身がピアノを専門にしているわけではないが、ピアノの官能力というかこころを震わせる力についてよく考える。
チェロがあり、サックスがあり、バイオリンがあり、ピアノがある。
横笛があり、琴があり、三味線があり、胡弓があり、太鼓がある。
西洋にワインが自然にできる風土があり、その土地と空気と水から独特の美味さのワインができてくる。
でも、そのワインも種が運ばれ、日本にやってきて、北海道や甲府でも、それなりの美味さのワインはできる。貴腐ワインなども、ハンガリーのトカイだけがすごいわけではない。二番三番手にもそれなりの出番はあるのだと思う。
ヘミングの言葉にほうっと思った。
「画家でデザイナーだった父の血を引く影響からか、私は音よりも視覚的なものに憧れる。」
まったく私と反対だ。私は小さな頃から絵ばかり書いていたから、逆に音楽的なものに嫉妬を覚える。
このフジ子・ヘミングが絵もなかなかいけるのだ。ちょこっと書くのだが、味がある。
父親の血があるのだろう。その父も口うるさい母親に嫌気がさして、違う女のところに走ったとフジ子は父に同情している。
父は「仕事がうまくいったらおまえを引き取る」と言って最初のうちは手紙などもよくくれたが五歳の時に別れたあともう会うことはなかった、と彼女は回想している。
その母親のおかげで今の私があると、信じる彼女の神秘主義もまた素敵だ。<実際母親が死んで日本に嫌々もどってきて彼女は一躍日本で人気がでたのだから>
そんなことをとりとめもなく考えている休日の朝。幸福な朝だ。
ふと、ユーチューブで、リストの検索をしていると、フジ子・ヘミングと同じリストが得意な
アリス・沙羅・オットーのクリップを見つける。フジ子のような人生の味はまだまだしないけれども、
何かおもしろいものを感じる。
こんなことを言うと妙だが、リストと言えば難解の難解の作曲をする人。その人の曲にあえて挑戦するのはなぜかなあと、思ってしまう。あの美貌とセンスならば、たとえば、もっとポピュラーな曲や日本でうける曲を選ぶはずなのに、マニアックなリストを選ぶあたりが引かれてしまう。
しかもリストと言えば、フジ子がいる。人生の巨匠に対してこのひとりの少女がリストをあえて選ぶ意義。超技巧のテクニックで彼女の演奏はどことなく彼女の風貌に逆にミスマッチなのがいい。
というわけで。
眠い目をこすりながら彼女の演奏に今ひきつけられている。手が大きいところも好きだ。
アリス・沙羅・オットーはその意味ではドイツの父と日本人の母との間のダブルである。<私はハーフという言葉があまり好きではないので、ユーモアをこめてダブルとよんでいる>