幇間をネットで調べると、「幇間は別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉のお伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門を祖とすると伝えられている。呼び名の語源は「太閤(秀吉)を持ち上げる」という ...」とある。
この短編を朝列車の中で、うつらうつら、しながら読んだのだが、いろいろなことを考えることのできた好短編だった。
まず、思い出したのが、三島由起夫と小林秀雄の対談の「源泉の感情」の中の、小林の言葉。
「あの標準語っていうのは、今のところ死語だね、僕大っ嫌いなんですよ。映画もそうですよ。・・あれ一種のエスペラント語だよ、みんな同じ台詞を使いやがるんだな。それで死んでるんだ、みんな。」
この言葉からさらに私は茂木健一郎の言葉に連想をつなぐ。
「小林さんのあの喋りはそう、名落語家のあの・・」と続く。名前は忘れました。
そのような言葉を思い返しながら、この男大夫の言葉がなんと生き生きとしていることやら。
そして、はっとして、気がついた。
この男は「ナオミ」つまり「痴人の愛」の原型ではないかと。
このことは谷崎がMだとかそんな低レベルのことを言っているのではない。
男と女の本音の肉欲のある部分を本質的に書ききっていることへの尊敬である。
たんに、男と女の出来事、ラブアフェアというのかそれをロマンチックに書いている軽薄なる
最近のテレビドラマとは格段に違っていることへの畏怖の念である。
「幇間」、名短編であった。
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