あいまいな」「いいかげんな」発想というのは、こんな、悲惨で残酷な21世紀には意外に、世界に平和をもたらす、日本固有の文化なのかもしれない。 huruhon
朝からひどい吹雪が続いている。12月が、例年ないほどの暖冬で雪があまり積もらなかった反動だと言う。
milesのkind of blue を聞きながら、車窓の風景を見る、ドラマチックという言葉が適当かどうかわからないが、その見事な自然のpaintingは、毎日見ても、飽きることがない。
milesのsolo がはじまる。いったい、このmilesはどうして、トランペットを吹いているのか。
生活のためというには、そんなものの匂いがないし、金が目的というならば、すでに楽器は吹く必要がないだけの金はあったはず、女に対する恋愛も数多くこなしてきているが誰かのために吹いている感じではない、徹底して「これまでにない音の追求」をしている。
なぜ、これまでにない音の追求をするのか。
それは私にもわからない。
だが、文学だって、映画だって、視点を変えれば、sportsだって、会社だって、「変化への対応」が一番問われているのである。
新しい文章、新しい物語、新しい攻め方、新しいビジネスモデルのコンセプト、常に変化する環境に対して一番有効な「なにか」が求められているのか。
彼は常に新しいこと・もの・を考えてきている。
そのことで、友人が去って行ったりもしただろう。
理屈ではなくてとにかく新しい音を作る職人みたいなものかもしれない。
その意味ではpicasoに近いものも感じる。
茂木さんがspainのゲルニカの前で動けなくなったとか、小林秀雄がゴッホの鴉の絵の前で何時間もたたずんでいたとか、あるいは、ダリは展示会の大会場を数分で駆け抜けたとか、いろいろな伝説があるが、人は自分の波長と会う絵や物語や音や人に会うと、「動けなくなる」ものかもしれない。
理解できないから、なんだこれは、という疑問とそのartから発する何かがからだと脳をとらえて離さない。
音楽であれば、私はそれを一番感じるのは、milesである。たしかに、ドルフィもオーネットもいいのだが、それはたぶん人の好みの波長が違うからかもしれない。
吉行淳之介さんは、オーネットが大好きで、童話を好んだ、という事実があるだけである。
あの抽象的な心理劇はやはり、オーネットと童話というところにつながるのかもしれない。
小林秀雄とモーツァルトというのもわかる。モーツァルトとの音楽は理解するものではないと思う。
なんでこんなものがこの世にあるんだろうという不思議さへ感じる。
人が作ったんだから人工、つまりartficialなものなのに、「自然」さへ感じる。「自然」の完璧な「精巧」を連想する。
そんなことを考えているうちに、新聞の記事で、天童さんの直木賞の記事を見る。
北海道をはじめ全国の人々の死を悼む旅を続ける青年の話らしい。
テレビで顔を初めて見た母親は、「神経質そうな顔だネ」と、一言。
死が間近に迫っている人にはインパクトは少なそうだ。
茂木さんの脳科学や遺伝子工学の立場から見ると、細胞の死は、その生のために必須のもので、いわゆる「セット」されているものと考えられている。
大きな命の中の小さな命の生と死は、その繰り返しの中で、大きな命が存続されている。
福岡さんの生物と無生物の間を読んでも、やはり、死は死ぬときに死ねばいいのじゃ、という感じがする。当たり前なんだというひょうひょぅという感じが大事なのかもしれない、その感覚は「楢山節考」まで連想がいきあたるが、それはまた考える。
一度、雑誌で、鳥葬というものを見たが、たしかチベットだったが、気持ち悪いを超えて、なにかその写真には厳かなるものまで感じられた。ひとりの少女が死んで、家族が大空を舞う鳥達に、与えることで埋葬するのだ。
稲垣足穂も「死ぬのが怖いのではなくて死ねないから怖いのだ」とたぶん輪廻のことを書いていたが、ひとりひとりの「個」がここまで大きくなってきて、全体の生のことに思いがいかなくなっているのが、たぶん、今の現代の流れだな。
イスラエルとガザの連中は良くも悪くも自分という「個」のことなど考えていない。そこにあるのは、神の名においての戦争だから。だから問題も複雑になる。神様もこまったもんだ、一神教なんていうのはそういう意味でも戦争をひきおこす大元だと思う。
自分の神様が一番だと誰しも思いますものネ。
その意味では、太古から、貧乏ではあったが、皆で歌をうたいながら作物を作り、創意工夫をしながら、「八百万の神」=やおろずの神、を信仰した日本人の知恵はたいしたものです。
神道の言葉も生活に浸透しておりますものね。
厄 祓い 神輿 お神酒 八百万の神 新嘗祭 祝詞 禊=みそぎ などなど・・・
そう私にはやおろずの、たくさんの神々が、ついている。
そしてあなたにも。
そういう「あいまいな」「いいかげんな」発想というのは、こんな、悲惨で残酷な21世紀には意外に、世界に平和をもたらす、日本固有の文化なのかもしれない。