だが、維持しなければならないレベルが身体のなかにあるというのは間違いでいる 松岡正剛 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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からだというのは自分のものだと思っている、だから一所懸命訓練もする。だが、維持しなければならない
レベルが身体のなかにあるというのは、間違いである。    <松岡正剛>






朝、10時まで寝てしまう。気持ちの良いひかりあふれる朝が待っていてくれた。ありがとう。窓をあけて、三階のメリットである眺望を楽しむ。

「フリーホイーリング」テッド・ブラウンが、部屋中に鳴り響き、幸福感がひしひしと。

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メンバーはテッド・ブラウン(ts)、ウォーン・マーシュ(ts)、アート・ペッパー(as)、ロニー・ボール(p)、ベン・タッカー(b)、ジェフ・モートン(ds)のセクステット


雪がだんだん、この昼の陽気で溶けてきました。
そしてまた、雪が降り始め、ほんとうの意味で北海道には真冬が来ます。
うれしいような、おそろしいような、実に33年ぶりの北海道での越冬に挑戦です。笑えます。

部屋には、お香を、焚きます。
これがあるとないでは、休みの日の癒され方が違います。
私の愛用するお香二種。

太さがいろいろあるので、私の愛用するお香を焚く容器の穴の大きさが合う合わないがありますので、
この二種としぼられました。
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ところで、私はいつも書いているように、ベストセラーは読まない。買って布団の横の積んどく本の一番てっぺんにまさに「つんどく」だけである。
時間がたち、皆が忘れたころに、ひねくれものの私は読む。そして、ほとんどの場合、感動もなく本棚の端の端の方へ片付けられることが多い。
私は時間と人々のある特定の期間ではなくて、何年もの間読まれつがれていくものに興味がある。
そこに人間の知恵とか、心理の流れとか、いろいろ感じることができるからだ。
源氏物語なんかはまさにそうだろうネ。あれは作者の意図に反してそうとう良い意味で、読者がいろいろな付加価値をつけていると思うのだが、それだけ、柔軟性を持つすごい生命力を持った本だと思うのだ。

さて、三砂の「オニババ化する女たち」は2004年頃にちょっとした話題になった、光文社の本なのだが、最近ちょっと考えることがあり、読み返しているのだが、当時のブログやら検索や批評などをざあーと見回してみて、ほとんどが、フェミニスト関連の意見が多く、この著者に対して賛成と反対の意見に別れていた。まあ、そのことはともかく、私がちょっと興味をひくことがあり、それは男性がこころにひっかかつたこととしては、少しはしたないようなことなのだが、自分用のアイデアノートのひらめきとしてここに記すことにする。



それは、<大人の会話としてゆるしていただきたいのだが>著者が、90歳ぐらいの女性に質問したり、産婆さんなどから、大量のインタビューをした結果として、書いている仮説というか、疑問というか、断言というか、未だに男の私にはわかりかねることなのだが、まじめに書くと、女性だけの持つ自然の神秘<月の満ち引き>である。
未だに、それは、月の影響を受けていると言われており、女性の女性たる神秘の自然そのものなのだが、書者は、昔の女性つまり明治以前の女性、平安・江戸も含むずっと人類の起源からの女性をさして、「それはコントロールできた」と書いている。

ここが、私は、びっくりした。

平凡で月並みな私のそのイメージは、テレビのコマーシャルで流れている宣伝のうたい文句として頭に刻まれているように「吸い取る」もの・コントロール不可のもの・どんなことをしても人の意図からはみだすもの・として考えてきたのである。

著者はこの事実を深く思索しながら、最後の自分なりの主張である「おんなはおんなの体の身体性をとりもどす」とまとめてゆくのである。

これは、でも男にも言えるだろう。
男も今現代における管理社会の出現により、少し大げさに言えば、SF小説にあるジョージ・オーウェルの1984のような環境になってきている。
あるいは、テレビでも、麻生さんが少し間違えると、皆があーでもないこーでもないと吠える。
差別問題で、癲癇用語の使い方で断筆宣言をした筒井康隆が、大江健三郎とやりあったように、あげあしをとるのが日本人はほんとうに好きだ。
そんな息苦しい環境の中で、男も「からだ」について考えてみることは重要だ。

あたまでっかちは、ろくなことがない。

汗をかく。
手と足をうごかす。
そして、おんなは、満月とともに血を流しているのだから。

五木寛之は、からだのなかでも、足を特に風呂場でよくもみながら洗っているそうだ。

バタイユは、「足」に注目した哲学者だ。

最近では、「こころ」は「脳」にだけではなくて、「肝臓」にあるのではないかとか、腹の奥つまり腸にあるのではないかとか、いろいろ仮説がでてきている。

松岡正剛の友人で、田中眠という舞踊家がいる。彼は、私が24歳の時に札幌で牛のようなダンスを特設喫茶でやってそのパフォーマンスにぶったまげた記憶があるのだが、最近は、いい役者になっている。
「地下鉄にのって」では最初と最後に出てくる先生役で、いい味を出していた。
あたまだけではなくて、からだについて、考えてみるのもいいことだと思う。

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<身体・気象・言語>田中眠×松岡正剛


これから、口から白い息をはあーっと出しながら、散歩してきます。
からだですヨ、からだ。