神様にそっと内緒でつくった人生のカンニングペーパー、と松岡正剛は、美輪明宏の「正負の法則」の
本を紹介してる。
この答えは、あたっていた。
花の中に種があり、花の中にすでに花びらの散ることがもともと内在されておりまた未来に種が芽をひらくことも含まれている、などという弁証法のような硬さでもない。
中国の陽明学の「陽」と「陰」にすべてのものがわかれており、ぐるぐると、それらは、回り続ける。
これらの書物的な黴くささもなく。
美輪さんは、いろいろな人が彼に対してのほめしかりを書いているが、意に介さず、自分のいいたいことをはっきり歯に衣着せずに言う。
田中優子が彼女に楽屋であっただけで泣いたという。
そんな逸話にあふれているのが美輪さんだ。
観音念波力というらしい。
そりゃあそうだろうと、思う。
あの姿は、まさに「アンドロギュヌス」、三島がいつかは書きたいと思っていた男性女性の一体になった姿、ギリシャ神話に出てくる異端神の姿でもある。
私も学生時代は、北海道からひとり上京しあまりの孤独さから、神経衰弱となり、バイトもせずに、人と交わらず本ばかり読んでいたら、二年間があっという間にたってしまい、自律神経がやられて、人の顔が見れなくなるほどの重傷になっていた。
結果はその苦しみから逃れたときに、気がついたのは、あの時の自分がいたから今の自分があるということである。
あの二年間がなければ、つまり美和さんのいうところの「負の先ばらい」がなければ、その後の私もなかったことになる。
金襴緞子の花嫁人形はしくしくと泣き、叱られれば町までお遣いに行かなければならず、雨が降っても傘はなく、紅緒の木履(かっこ)の緒は切れる。動物にだって、悲しいことも儚いこともおこっていた。ウサギは木の根っこに転び、ちんちん千鳥は泣くばかり、歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てられ、背戸の小薮に埋(い)けられた。
大正期はこういう童謡を、北原白秋・野口雨情・三木露風・西条八十らの大人たちが、全力でつくっていたものだった、そう松岡は書いている。
人は悲しみ=負、からはいろいろなものを学ぶが、楽しみからはなかなか学ぶことができないのかもしれない。
「今の日本、どこかおかしい」
どんどん、美輪さんに、説教してもらいたい。