盤山開拓記 No11(最終回) ‐戦争に翻弄された少女の記録‐ 有馬芳子
盤山開拓記 No11
‐戦争に翻弄された少女の記録‐
有馬芳子
田代盤山(ばんざん)編
昭和48年12月盤山開拓道路が舗装され、道路も一段とよくなりました。
昭和50年4月、昭和26年以来、6期24年間町会議員として各方面に活躍して下さった町清之進さんが勇退なされ、夫の有馬功が後を継ぎ町議になりました。
有馬夫妻
夫は7期28年間、田代の議員を務めて平成26年2月に勇退しました。
勇退後、盤山道路の両側に孫の房子と紫陽花を30本程度植えました。
後は一人で紫陽花を植えました。
一万本を目標に、約2.5kmの道に植え続け、道行く人の心を和ませました。
一度決めたら、最後までやりとげないと落ち着かない信念と根性の強い人でした。
12000本の紫陽花を植えて目標を達成したのですが、7年前に脳梗塞の病に倒れ、半年の病院生活をした後、苦しい顔ひとつ見せずにすやすやと眠る様に天国に旅立ちました。
57年間共に苦労をし続けた人でした。残された私は、未だに立ち直れない愚女です。
生前、主人がしていた様には手入れが出来ず、だんだんさびれ枯れて行く紫陽花に涙するばかりです。
昨年は戦後70年、今年は田代に入植して70年、流れる様に月日が過ぎ、日に日に老いる身体に今は一抹の寂しさを感じつつ暮らす老婆です。
思い出せば支那事変、大東亜戦争にと相次ぐ戦争にお国の為、家族の為と、勇んで戦地に行って父親は、戦死しました。
父親亡き後、銃後を守る若き妻達や、子供達がいました。
私の母親も女手ひとつで子供達を守り、育て、苦労をしたまま亡くなり本当に無念でなりません。
戦争で多くの犠牲者が出て残念です。
此の様な方々の犠牲のお陰で、私達は平和な世の中に生きています。
戦前、戦中、戦後を経験し、私が老いてなお生きられているのも、亡き母のしっかりした、力強い励ましの言葉と、開拓地での一糸乱れぬ、統制と団結があったお陰です。
それに入植当時から今に続く田代町民の暖かいご援助のお陰様だと、私は何時も感謝しております。
毎年7月18日は、私達が田代に入植した記念日です。
この日はどんなに忙しくても部落民が全員、公民館に集まって、公園の掃除をした後、慰霊碑と入植記念碑に亡くなられた先輩の方々や、団友の方々のご冥福を祈ります。
苦しかったころのことや今後のことを話し合い、2世3世と皆揃って楽しく一日を過ごします。
今は農家も大変な時期ですが、何時までも開拓魂を忘れずに、今後、益々、色々な方面に頑張って働く事を誓い合って解散します。
入植したときから続く共同と団結の精神は、今も変わっていません。
誠の心を持った与論の人達だとつくづく、寂しいながらも幸を感じています。
私は、この歳になって思い出す事が一杯あります。
書き残しておきたい事も山程あります。
ですが、頭も体も手も思う様に出来なくて頭を痛めている昨今です。
今、よかったと思う事は、栄一を残留孤児にしなかった事と母子4人が無事で帰国できた事です。
これには何時も感謝です。
弟は今では立派な家を造り、畑を拡張し、子供達3人、孫7人で倖に暮らしています。
妹は子供5人、孫12人で彼女も倖に暮らしています。
幼い頃に、戦争で両親を亡くし、淋しい思いをしましたが、現在はきょうだい仲良くそれぞれ昔の事を思い出しながら余生を暮らしています。
私が87年間生きて来たことを、自分誌だけでも記しておきたいと、何時も思っておりました。
私の一生の宝として、又、波潤万丈の自分の人生を書き残しておきたいと思い、思い出せる所だけ、乱文乱筆ながら書きとめました。
今の平和な世の中が永遠に続く事を祈って筆をおきます。
平成28年7月10日
老姿芳子
※ 実名で掲載しています。
不都合がございましたら、お知らせください。
【追加情報】
・(田代入植)数年後、川原駐在所の巡査が、わざわざ転勤のあいさつにきて、こんな感想を残したことを町(団長)はいまでも忘れられない。
「正直なところ、初めのころは、畑のカボチャでも盗んで、村民とイザコザを起こすんじゃないか、と心配していました。しかし、何ひとつ問題は起きなかった。私はお礼を言いに来ました」(南日本新聞社編「与論島移住史」より)
・1969年(昭和44年)、与論町と田代町は姉妹盟約を締結しました。2006年(平成18年)、錦江町(田代町と大根占町が合併)と姉妹盟約を締結しました。
向かって、左:原田代町長、右:龍野与論町長
・田代での開拓は、錦江町の「広報きんこう」に詳しく紹介されています。表紙は芳子さん。
「広報きんこう」の表紙を拝借しました
・「盤山開拓団慰霊の碑」
那間老人クラブが建立しました。
錦江町からヨロンの全家庭にお茶が届きました。
星の写真は、こちら に掲載しています。