本土復帰70周年記念 太平洋戦争後の生活の移り変わり No5 | さすらいの風来簿

本土復帰70周年記念 太平洋戦争後の生活の移り変わり No5

8.埋葬から火葬へ
与論では1902年(明治35年)まで風葬が主体でした。
衛生上の問題から風葬は禁止され、埋葬に移行しました。

 

 


埋葬に移行しても、風葬時代の風習であった洗骨・改葬は行われました。

 

 


2003年(平成15年)に火葬場「昇龍苑」が完成し、火葬が主となり埋葬は行われなくなりました。

それに伴って、洗骨・改葬も行われなくなりました。
埋葬は約100年間行われたことになります。


9.学校
終戦直後は茅葺きの校舎でした。

 

 

 

青空の下で授業をすることもありました。

 

 


米軍政府の施策はお粗末で、教科書もノートも鉛筆もありませんでした。
1948年(昭和23年)、奄美大島のふたりの教師が、金十丸(海運の項参照)の神戸でのメインテナンスに乗じて本土に密航し、軍政府の厳しい監視の目をくぐり抜け、教科書や教材を奄美に持ち戻りました。
帰島後ふたりの教師は、密告で教職を追われてしまいました。


茶花小学校の鉄筋コンクリート校舎は1958年(昭和33年)に完成しました。

 

 


1967年(昭和42年)与論高校は、大島高校の与論分校としてスタートしました。
校舎は、与論中学校の校庭の南側にありました。

木造の校舎でした。
1968年(昭和43年)現在地(ふぶしゃ:窪舎)に移転しました。

 



 

集団就職:中学校を卒業しても与論に働く場は少なく、卒業したら賃金の高い本土に就職するのが一般的でした。

高度経済成長期(1955年ごろから1973年のオイルショックまで)、になると、製造業では労働力を必要とし、小売業などでも家族以外の労働力を求めていました。

中卒者は「金の卵」と言われ、集団で就職しました。

 

 

 

 

業界は労働力を確保でき、就職者は経済的に自立することができました。
集団就職は日本の高度経済成長を支えました。

 

 


10. 医療
1955年(昭和30年)与論村立診療所(現町立図書館)ができました。

 

 

 


その後、現在の役場の地に移転しました。

 

 


急病人は陸上自衛隊のヘリコプターで沖縄へ運んでいました。

 

 


1991年(平成3年)パナウル診療所が開業しました。
1996年(平成8年)与論徳洲会病院が開院しました。

 


 

 

星 星の写真は、こちら に掲載しています。