「鎮魂」から「私の戦争体験記」 原田泰年 | さすらいの風来簿

「鎮魂」から「私の戦争体験記」 原田泰年

「鎮魂」

1996年(平成8年)10月、与論町遺族会が発行しました。

終戦50周年記念に戦争体験記を掲載してあります。

その中から、著者の許可をいただいて転載します。

 

私の戦争体験記

原田泰年

 

徳之島の飛行場建設工事人夫を乗せた開門丸が与論島北方海上を徳之島を目指して航行中に、米軍の大型爆撃機に撃沈されるという大惨事が起こりました。

私は奇遇にもこの惨状を木の上でつぶさに見ていたのです。 


昭和20年2月18日、父・村治(48歳)は徳之島の軍用飛行場建設工事に再度徴用されて、与論島から34人の人夫仲間と共に駆り出されたのです。

 

いよいよ出発の日、私は父に呼ばれました。

「ヒーヌパナヌブイヤシンノーヤ。ウシヌムンヤ、ギシキヌパーハティコーショー」・・・ 
(木の枝の端には登るなよ。牛の餌は、ススキの葉を刈って食べさせなさいよー)
牛の草刈りのために木登りしはしないようにと忠告すると、工事用平鍬、雨具の蓑笠や身の回りなどの包みを担ぎ、見送りの母と共に小雨の中を出掛けて行ったのです。


数時間後、私は製糖組合の故山為島氏に呼ばれて、父の代わりに大人と共にキビ刈りの仕事を手伝っていました。

丁度そこへ供利港で父と別れた母が、とぼとぼと帰って来ました。

母は私を見て「お父さんの乗った船が見えるよ。」と言うのです。

その船は今どの辺りを航行しているだろうかと、私は急いですぐ近くのガジュマルの木に登りました。 


冬の海は荒れ、青いはずの海は砕ける波で白く輝いていました。
その洋上に船を見つけた私は、キビ刈りをさぼったま波間を見え隠れしながら黒い点となって航行している船をずーっと見送っていたのです。

 

その時、突然飛行機の爆音が聞こえてきたのです。

間もなく東南の海上に四発のプロペラ、尾翼の両端に垂直尾翼の付いた米軍の大型爆撃機のB-24が姿を現したのです。

 

 写真はWikipediaより


当時、米軍機は電波探知機を備え、人の声をも探知するとか、動く物はすぐ発見されてしまうなどとよく聞かされていたので、木の上の私はすぐ見つかるのではないかと恐怖におびえ、身動きもせず、じっとしていたのですが、なぜかその飛行機は与論島を横目に海上を北へ飛び去ったのです。


その頃の米軍は、地上攻撃はせず、徹底して船舶ばかり撃破していたのです。

従って父が乗っている小さな船でも撃沈するのではないかと極度の不安に襲われたのです。

北上して行く敵機に次第に緊迫の度の高まりを感じていました。

 

ついに爆撃機は船を発見したのか、キラキラと翼を翻して船の方へ機首を向けたのです。

事態は最悪に直面し、その機は刻々と船に近づいて行きました。

たちまち爆弾を投下し、機銃掃射を仕掛けたのです。
「大変だ、お父さんの船が爆撃されたよ!」と木の上で私は叫びました。

キビ畑はにわかに騒然となり、みんな我先に逃げ帰りました。


警防団員の故山為島氏はハジピキバンタに走り、赤旗を立て、空襲警報のサイレンを鳴らし、更に役場へ急行して通報し沖之永良部へ救助依頼の打電をさせたとの事です。 


情け無用の戦争です。

民間人ばかりの船は無抵抗のまま機関砲を撃ち込まれ、爆弾の水柱が無数に立ちのぼり、わずか20屯の船はたちまち黒煙をあげて炎上して沈没してしまいました。

 

救助された人の話によりますと、いち早く敵機を発見した父はブリッジに駆け込み、輸送指揮官に向かって「直ちに船を島へ引き返せ。あの飛行機が見えるか。あれは敵機だぞ」と激しく抗議し、懇願していたそうです。

しかし軍国主義当時のこと、聞き入れられるはずがありません。

逆に「キサマは上官に命令するのか。」と怒鳴られていたそうです。


貧しくも平和に暮らしていた父、子ぼんのうだった父。

母の話によると、長男を東京へ産業戦士として送り出して以来、食事の度に「ヤマは腹一杯食べているだろうか。」とか、おいしい物があると「ヤマに食べさせてやりたい。」と言い、その時、父の目に涙が流れていたそうです。 


残された私達母子4人(母49歳、姉19歳、私11歳、弟7歳)は毎日朝から晩まで、父の生還を祈っては泣き、みんなで泣きました。 
神棚にお線香をあげて「神様、御先祖様、どうかお父さんを助けて下さい。」・・・

祈りを捧げては泣き、畳に額をこすりつけ、胸をかきむしって気が狂ったように母は嘆き、悲しみに打ちひしがれてしまいました。 


この悲しみのさなかに、度々朗報があり、沖之永良部に11人が救助されたとも、しかし期待も空しく父の名前を開くことは出来ませんでした。

伊平屋島に4人が漂着したとの朗報にも父の名前を聞く事は出来ませんでした。

 

泳ぎの達者な父は、きっとどこかの島に漂着し、生存していていつの日にか、「ワラビンチョーイ(こどもたちよー)。」と言って必ず帰って来ると信じていました。 


父の遺体をこの目で確認しないと、父の死を決して信じないという母は、いちるの望みを胸に秘め、その後、船舶攻撃から地上攻撃に作戦を変えた米軍の激しい空襲にもひるむことなく、女手ひとつで私達を守り育ててくれました。


50年の長い歳月は、あらゆる事象を忘れさせようとします。

しかしあの恐怖の忌まわしい戦争体験を忘れる事は出来ません。

戦争は百害あって一利なしです。

 

母の最愛の夫を奪い、この世でただ一人の父を奪ってしまいました。

夫を失って30年、80歳でこの世を去った母の無念の独り言「あの戦争さえなかったなら・・・。」
 

 

 

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