家事労働・家事分担に代わる言葉を見つけたい! -治部れんげさん 石川雅恵さんの講演を聴いて- | 野良猫の目

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~本当は寝ていたい~

昨年の4月から、3度ほど、区役所が主催する男女共同参画やダイバーシティをテーマに据えた講演会などを聞いてきましたが、内容は区ごとに全く違っていました。その中でも、3月8日の文京区のシンポジウムが自分の経験と考えていたことに応えるものでした。

 

 

私は、どうしても「家事労働」と「家事分担」という言葉になじめません。とはいえ、結婚してから四十余年、家事・育児を家内に任せ切りにしていた訳ではありません。むしろ、同世代の男としては、「変わり者」と言われるほど、それらに関わってきたと思います。それだけに、家事に「労働」とか「分担」という実感がないのです。

 

 

○ 家事・育児で男に出来ないのは母乳をあげることだけ!

治部れんげ氏のこの言葉。まさに私の実感そのものでした。家内も私も停年退職まで働きました。共働きで2人しかいないのですから、そのとき必要な事は、出来る人間がやらなければなりません。「男だからこれは出来ない(or やりたくない)」なんて言っている暇はありません。家事に関する原則はただ一つ、「一人がてんてこ舞いしているときに、他の一人が寛いでいることがないように!」というものだけでした。私にとっては、むしろ、妻が家事をやっているときにテレビ見ながらビールを飲んでいる亭主がいることを、家内の同僚から愚痴混じりに聞かされて驚いたものです。私達の頭には最初から「家事は女の仕事」なんていう考え方はなかったのです。

 

 

○ 家事・育児は“労働”なのですか?

自分達の命(生活)を維持するために外で身体を動かして収穫する(収入を得る)行為(労働はその一つ。)と、その収穫を食べ(消費し)、そして寛ぎ憩うための場を維持する行為とを同じ次元で捕らえられないと思っています。「労働」とは、家庭の外で稼ぐこと。家庭内のこととは違う本質的に違うものではないかと思います。そのことから、「家事労働を賃金に換算したら……」という言葉には感覚的に反発を覚えます。

最近、家事代行という職業が注目されているようですが、むしろ、この「代行」という言い方のほうが本質を失わないように思います。「本来家庭内で処理するものを外注する」という考え方が維持されているからです。「家事を外注したらこれだけ掛かる」という言葉のほうがまだ納得性があります。

 

当日のシンポジウムでは、石川雅恵氏がアメリカの家庭の事例の中で、家庭内の作業に「work」という単語を使っていました。労働を英語では「labor」として捉えていた私にとって、「あ、これだ!」と思いました。

「家事のwork」を日本語で表す適当な言葉は見つからないものでしょうか。本当は自分で見つけられれば良いのですが、残念ながら私にはそういうセンスはないようのです。

むしろ、「家事労働」というより、「家事」とだけ言ったようほうが良いようにも思えるのですが、「家事労働」という言葉が定着してしまったようなので、いまさら「家事」とだけ言っても通じないでしょう。治部氏のようなジャーナリストの方が、家事労働に代わる新しい言葉が見つけてくれないものか」と、彼女の顔を見ながら考えていました。

 

 

○ 家事は分担するものですか?

「家事分担」と聞くと、家事を「こっちは私の仕事、そっちはあなたの仕事」と二つに切り分ける印象を強く受けます。そのようにすると、どちらかと言えば、一週間あたりの労働時間が世界一の男性(働き方改革ラボ 2018年1月16日の記事)にとって、新たな負担を押しつけられた印象を持ちます。そこで、この負担感をなくすため、「家事分担に代わる新しい考え方を表す言葉」で、公の場で議論するのに使える良いものを見つけることができないか、と思うのです。

 

私が一つのイメージとして持っているのは、「家事の共有」という言葉です。この言葉には、「家事は夫婦で一緒にやるもの」という思いが込められています。女性から「これはあなたの仕事!」といわれるより、「一緒にやろう!」と言われた方が、男性は心理的な抵抗が少ないように思います。治部氏は、講演の中で「share」という単語を使っていましたが、このほうがより日本語の「共有」に近いように思います。この「一緒にやろう」という考え方とそれを表す言葉が夫婦で共有されて、初めて、「家事は夫婦でやるのが当たり前」という考え方が定着するような気がします。

もちろん、そのためには男性・女性自らが、「8時間を超えたらあとは自分の時間」という意識をしっかり持たなければなりません。また、女性も「父ちゃんを家庭に帰せ!」という強い意志を持たなければならないでしょうし、そのためには夫の尻を妻が叩くことも必要になるかもしれません。

 

 

○“働く女がオスにならなくてもよい社会を!

Domaniという小学館の雑誌が駅に掲出した広告のことが話題になっていました。私はこの雑誌を読んでいませんが、あの広告でみたコピーは、民間企業で活躍する女性の実態をよく表していると感じました。結局、今の企業で女性が男性並みに“活躍”しようとすれば、オスにならざるを得なかったのだと思います。男子社員並みに残業をして、取引先との終業後の接待にも顔を出し、そして、部下の社員には男も女も関係なく同じパーフォマンスを要求する、時として「だから女はダメって言われちゃうのよ!」と部下の女子社員を叱咤している“輝く女性”の姿を見てきました。

 

私が新卒で入社した会社では、創業者の男女完全同一賃金の理念が引き継がれ、そして社内の昇格試験に合格すれば、男も女も昇格しました。業界で先駆けて女性の支店長が誕生して新聞で紹介されたり、また、女性の課長などの管理職もいました。もちろん、女性の時間外労働の規制など母性保護のための措置は執られていました。そんな中でも、まだ、私が平社員だったころに女性管理職から「女子社員が昇格試験を受けないというのも、女なのにここまで(=男並みに)やる必要あるのかしら、って思っちゃうのよね。」という呟きを聞いたことがあります。でも、そこには「選択の余地」があったと思います。

しかし、1985年に成立した男女雇用機会均等法とともに、むしろ「男並みに働かせろ」という声が全面に出てきました。この頃の雰囲気は2015年9月に「派遣法施行から30年(2)で書かせていただきました。男性並みに働かなければ一人前と言われないような職場の状況は、こういった“オスになった女性達”が推し進めてきたような気がします。

 

 

○ 職と生活の安定と生活上のリスクに対応できる社会的なシステムを!

昨年6月に内閣府から発表された「女性活躍加速のための重点方針2018」にも目を通しました。この中にも「男の産休や男性の育児休業等の取得の促進」、「男性の家事・育児等への参画についての国民全体の機運醸成」などの項目もありますが、この方針の全体が、「女性活躍」というお題目とは裏腹に、女性を働かせる立場からの視点で、女性について話題になっているテーマのある各分野について「出来るところからやれば良い」的な対症療法を寄せ集めたもののように見えます。そこには、「生活者として、労働者としての女性」の視点から女性の職と生活を安定させかつ生活上のリスクに対応できるような“社会的なシステム”を構築しようという姿勢が見られません

 

女性が、男性と張り合うのではなく、男性を“日々”の家庭生活と地域活動のなかに引き込むことに力を注がなければならないでしょう。そのことは、時間外労働規制(36協定)などの直接的な労働条件ばかりでなく、その働き方で生活し子育てができる賃金レベルをどう確保していくか、家庭の収入の安定を脅かす病気、失業、出産、育児、介護という問題について、賃金体系を含めどのようなセーフティネットを構築するかなど、労働条件、労働環境、労働者福祉など社会制度全体に繋がっていきます。しかし、手の届く身近なところから、夫婦を巻き込んだ運動を展開しない限りは、男女が平等に社会に参画する、ということは絵に描いた餅となってしまうように思います。男が当たり前に妻と家事をやることが、その第一歩となるような気がします。

 

 

最後に蛇足ながら……

内閣府男女共同参画局のサイトに「すべての女性が輝く社会」というページがあるのですが、このページのURLの最後の「#shine」が、私には「シネ(死ね)」と読めちゃうんですよね。

http://www.gender.go.jp/policy/sokushin/sokushin.html#shine