序:神童の原点「S.1」から30年。同じ主題が巨大なヴィルトゥオーゾ作品へ変貌した「変奏曲 イ長調 Op.76」
前回お届けした、歴史に埋もれていたフンメル11歳頃の最初期の作品「変奏曲 イ長調 S.1」の自筆譜復元と初音源化の記事には、多くの反響をいただきありがとうございました。
今回は前回の予告通り、その約30年後に書かれた、フンメルの真骨頂とも言える傑作をお届けします。
今回ご紹介するのは、「創作主題による変奏曲 イ長調 Op.76」(1817~1818年頃作曲)です。
まずは、こちらの音源をお聴きください。
まさかの「完全なる自己リメイク」
私の音源化を聞いてくださっている方には、「あれ? 聞いた事あるな」と感じた方も多いのではないでしょうか。
そうです。このOp.76で使われているテーマ(創作主題)は、前回ご紹介した11歳の時の作品「S.1」と全く同じメロディなのです。
恩師モーツァルトのもとで学んでいた神童時代に書いたシンプルな変奏曲の主題を、フンメルはヨーロッパ最高のヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして頂点を極めていた円熟期に、わざわざ引っ張り出して「再構築」しました。
当時の変奏曲は、流行のオペラ・アリアや民謡をテーマにすることが多かった中、自身の過去の「オリジナル主題」をあえて選んだところに、フンメルの作曲家としての強い自信と、自身の原点への深い愛着を感じずにはいられません。
1. 古典派の王道を行く「二部形式」の構造
少年時代のフンメルが創作した主題は、恩師モーツァルトやハイドンから受け継いだ古典派変奏曲の定石である「反復を伴う二部形式(A-A-B-B)」という非常に整然とした構造を持っています。
前半(A)が主調(イ長調)から属調(ホ長調)へと向かって提示され、後半(B)で再び主調へと回帰して完結するというシンメトリーな構成です。フレーズの区切りとカデンス(終止)が極めて明確であるため、後年になってOp.76のような複雑で超絶技巧的なパッセージを乗せても、楽曲全体の「建築的なバランス」が崩れない強固な骨組みとなっています。
2. 変奏の余地を残した「和声の堅牢性」と「余白」
変奏曲の主題として優れている最大の条件は、「メロディ自体が完成されすぎていないこと」です。
このイ長調の主題は、I(トニカ)とV(ドミナント)を軸とした非常にシンプルで力強い和声進行を持っています。また、旋律線には細かな装飾を入り込ませるための「リズムの余白(休符や長い音符)」が意図的に残されています。
● S.1の時代: この余白に対して、古典的なスケール(音階)やアルペジオを素直に当てはめました。
● Op.76の時代: ピアノの性能向上に伴い、同じ和声進行と余白の上に、より広い音域を使った跳躍、半音階的な経過音、重厚な和音を詰め込むことが可能になりました。
現代のDawソフトのピアノロール画面などでS.1とOp.76のスコアをデータ化して並べてみると、小節数や和声の骨格という「土台」は同じまま、音符の密度やアーティキュレーションの解像度だけが時代に合わせて劇的に拡張されている様子が、視覚的にもはっきりと浮かび上がります。
3. フンメル特有の「カンタービレ(歌うような)」旋律
当時流行していた既存のオペラ・アリアや民謡ではなく、わざわざ「創作主題(Theme original)」を用いた理由は、フンメル自身の持ち味である声楽的で優美なメロディラインを提示するためでした。
彼の書く旋律は、モーツァルトの無垢な明るさとも、ベートーヴェンの構築的な動機とも異なる、特有の「なめらかさ」を持っています。この流麗な主題には、後にショパンのノクターンやピアノ協奏曲へと直結していく「ベルカント的なピアノの歌い方」の萌芽がすでに含まれており、彼がロマン派への橋渡しとなる重要な作曲家であることを示しています。
4.聴きどころ:30年間の「ピアノの進化」と「フンメルの円熟」
同じイ長調の二部形式という土台を持ちながら、S.1とOp.76とでは、まるで別次元の音楽へと変貌を遂げています。その聴きどころをいくつかご紹介します。
①劇的に拡大した音域とスケール感
S.1が書かれた1789年頃は、まだチェンバロや音域の狭い初期のフォルテピアノの時代でした。しかしOp.76の時代には、ピアノという楽器自体が劇的な進化を遂げています。ペダル機構の発展や音域の拡大(6オクターブ以上)をフルに活かし、S.1では考えられなかったような広大な音域を駆け巡るアルペジオや、重厚な和音が随所に散りばめられています。
②次世代(ショパンら)を予感させる「装飾とベルカント」
古典派の明快なスケール(音階)で構成されていたS.1の変奏に対し、Op.76では半音階を多用した滑らかなパッセージや、息を呑むほどに美しい前ロマン派的な装飾音が連続します。まるでピアノがオペラ歌手のように歌う(ベルカント)この流麗なスタイルは、のちのショパンやリストへと直接繋がっていく「フンメル・スタイル」の極致です。
③圧倒的な技巧を要求する超絶技巧
Op.76は華麗な跳躍、細かなトリル、連続する重音など、当時のピアニストの限界に挑むような圧倒的なヴィルトゥオーゾ技巧が要求されます。「自分にしか弾けない」レベルの極めて高度なテクニックを、あのシンプルな主題の上に見事に構築しているのです。
