![音譜](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/038.gif)
都幾川大野松山線の宿交差点から、ひたすら山道を上り、慈光寺青石塔婆を過ぎ
ひらけた眺望で停車
輝く新緑
釈迦堂跡です
昭和60年11月26日焼失
間口8間 奥行き7、5間の大講堂でありましたと
釈迦如来、仁王像、蔵王権現を失いました
その隣に開山塔
ネットから写真お借りしました
さすが実物は迫力、気品がある室町期の木造宝塔です
覆屋内空調無しのようです
石段を上り
銅鐘は、鎌倉時代隆盛を極めた慈光寺を物語る物部重光鋳造の国指定重要文化財
やはり昭和60年の火災で釈迦堂、蔵王堂共に焼失しましたが、平成2年に再建されました
かつては多くの僧兵を擁し、近隣の城主との抗争に明け暮れ、太田道灌の焼き討ちに合い
栄華を誇った寺院も衰退していったということです
山門
本堂
本尊 千手観音立像
いつも来てるので順序不同で好きに廻っていますが
般若心経堂は閉まっておりましたが、
国宝慈光寺経(鎌倉時代の優婉華麗な装飾を施した名品)
往時の優雅な宮廷文化の美が比企山中の慈光寺にあります
足元には………
当然でございますが、もちろん本堂の許可を得て下さいまし
庭には如意輪観音
江戸時代に盛んだった
そして大きな青石板碑
頼朝亡き後、北条時政の謀略で無念の討ち死に、畠山重忠、重保親子の供養塔
いつの頃からか折損倒壊し放置されていたものを、明治12年復元されました
謀反の嫌疑
根底には武蔵國の支配をめぐる対立があったとも
鎌倉武士の鑑と称賛された重忠への嫉妬?
敵の武将も惚れた重忠の住居(菅谷館跡)は、現在の嵐山の旧鎌倉街道沿いにあり、
銅像は鎌倉を向いて立っております
観音堂へ
途中息継ぎしながらゼーハー
急峻なの
観音堂
坂東札所九番
本尊 十一面千手千眼観世音菩薩
夜な夜な村に出ては畑を荒らし廻った伝説
夜荒らしの名馬は左甚五郎作
怒った村人に鉄鎖で口を縛り、観音堂の上に収められています
風神雷神図
彩色が残っています
おびんづる様
撫でるのはご遠慮、浄財のみ
改めて全体を眺めてみると贅沢な造り
ご開帳時はぜひ拝見したいものです
青紅葉を透かし吹いてくる初夏の風
肺まで浄化されました
この記事は5/10の訪問
投稿遅れてしまいました
早くも5月も末
梅雨入り前の不安定な気候ですね
体調管理お気をつけてお過ごしくださいね