第38話 甲子園、行っちゃうの?
私は高校3年生となりました。
私は応援団も退部し、ただの帰宅部で勉強もせず、毎日プラプラとした高校生活を送っていました。
高校2年生の頃から下妻一校とは目と鼻の先にあった、下妻二校の女子生徒とお付き合いをしていました。
今では下妻二高は共学となっていますが、当時は女子高でした。
そんな中、私たち3年生にとっても最後となる夏の高校野球の予選が始まります。
この年は1980年です。
下妻一校は創立83年目を迎えていましたが、春夏を通じこれまで一度も甲子園に出場したことがありませんでした。
しかし、この年は様子が違っていたのです。
それは、私たちの一学年下に「斉藤学」というアンダースローの凄い投手がいたからです。
斉藤くんは1年生の時からエース、昨年の予選は準々決勝まで勝ち上がる大健闘をみせていました。
この年2年生となる斉藤くんに、私たちも大きな期待を寄せていました。
斉藤くんは1回戦からその期待どおりの活躍をみせ、あれよあれよという間に4試合を勝ち抜いて、今年も準々決勝に進みました。
準々決勝では「明野高校」に2-1で競り勝ち、ついに前人未到の準決勝までやってきたのです。
斎藤くんはここまで5試合を一人で投げ抜いて、取られた点数はたったの2点です。
「俺たち、甲子園・・行っちゃうの?」
学校中が期待の渦に巻き込まれました。
しかし、甲子園までの道のりはそうたやすいものではありません。
準決勝の相手は、この年の優勝候補であった「水戸商業高校」でした。
さすがに水戸商相手では、勝ち目がないと誰もが思っていました。
それでも学校中の生徒全員が応援に駆け付け、水戸市民球場を埋め尽くしたのです。
私もこの時ばかりは元応援団の部員として、学ランを着て応援団の助っ人として参加しました。
久しぶりにやってきた野球場はとても新鮮でした。
そして、
斉藤くんは何と、水戸商業を完封してしまったのです!
スコアは2-0、その瞬間私たちはまるで優勝を決めたような大騒ぎとなって、みんなで抱き合って喜び合いました。
そして迎えた運命の決勝の相手は、まだ創立3年目の「江戸川学園取手高」という無名の学校でした。
創立3年目の学校に、83年の歴史がある高校が負けるわけにはいかない。
誰もがそう思っていました。
しかしこの江戸川学園は、甲子園出場のために優秀な部員を県外から集めたスポーツ強化学校だったのです。
その野球部の部員数は何と120名、ベンチ入りメンバーの17人中16人が県外の出身者だったそうです。
ここまで6試合を投げ抜いてきた斉藤くんは、序盤から江戸川学園に猛攻撃を浴びせられました。
さすがに斉藤くんにも限界が来ていたのでしょう。
結果は9-0の惨敗、私たちの創立83年での初出場の夢は儚くも散り、甲子園に行くことは叶いませんでした。
当時はこんな寄せ集めの学校が県の代表として甲子園に出場していいのか!と新聞などでも叩かれていましたが、今のスポーツ強化学校では当たり前のこととなっています。
その翌年、3年生になった斉藤くんは再びエースとして予選に挑み、途中でノーヒットノーランを達成するものの惜しくも準決勝で敗退したようです。
下妻一校は、現在で創立134年を迎えていますが、いまだに甲子園に行く夢は果たせていません。
変わりに姉妹校である下妻第二高校が、共学となってすぐに甲子園に行っていました。
斉藤学くんはその後、青山学院大学に進学しそこでも結果を残しました。
そして中日ドラゴンズにドラフト1位指名(清原和弘の外れ1位)で入団、プロ野球選手となるのです。
その後、当時の福岡ダイエーホークスにトレードで移籍し、昨年まで福岡ソフトバンクホークスの一軍投手コーチを務めていました。
そんな偉大なピッチャーが母校にいたあの年が、進学校である下妻一校の最初で最後のビッグチャンスだったのかもしれません。
ちなみに甲子園に出場した江戸川学園取手高校は、運悪く横浜高校と当たってしまい、奇しくも下妻一校と同スコアの0-9で1回戦で敗れています。
第39話「免許証とオトンの怒り」へつづく。