第40話 為桜(いおう)祭とシャネルス
『私とオカンと、時々オトン』シリーズも、ついに40回目を数えました。
こうなったら50回まで頑張ろうと思います。
さて高校3年生の11月、高校生活の最後を飾る文化祭がやってきました。
下妻第一高等学校では、文化祭のことを「為桜祭(いおうさい)」といいます。
為桜(いおう)とは、藤田東湖の漢詩「文天祥正気の歌に和す」の一節「発いては万朶の桜と為る」から引用しています。
衆芳を抜かんとする生徒の心意気「為桜魂(いおうだましい)」を表現しています。
私たちは、この為桜祭で何か一生の思い出になるようなことをやろうと、仲良しグループで話し合っていました。
そして私たちが選んだのは、即席でバンドを組んでミニコンサートを開くことだったのです。
私が高校3年生の時は、ちょうど1980年でした。
この年は、鈴木雅之率いる「ザ・シャネルズ」(のちのラッツ&スター)というグループがデビューした年でした。
ザ・シャネルズは「ランナウェイ」というデビュー曲が大ヒット、楽器が出来ない私たちが目をつけたのがこのボーカルグループだったのです。
私を含めた悪友4人がボーカルとダンス担当、トランペットが吹ける奴を違うクラスからスカウトし、同時にドラムとギターとベースが出来る奴も探しました。
ようやく8名のメンバーが揃い、私たちはグループ名を「シャネルス」としたのです。
シャネルスの練習場は、いつも菊池の家の2階の部屋を借りていました。
鈴木雅之担当のメインボーカルに市村、私は田代まさしが担当していたバリトン役でした。
そして親友の菊池が久保木博之役、バスボーカルの佐藤義雄役は同性の佐藤です。
桑野信義がやっていたトランペットに鈴木、ベースは村田、ギターの松村、ドラムの原田とそれぞれ役割が決まり、そこから本番に向けて毎日猛練習です。
私以外、実名を公表してすみません。
しかし、ミニコンサートをやるには一つ課題がありました。
ザ・シャネルズはまだデビューしたばかりだったので、シングル曲は「ランナウェイ」と「トゥナイト」の2曲しかなかったのです。
2曲だけでは持ち時間の30分はもたないので、私たちは当時のレコード盤には必ずあったB面の2曲もマスターすることにしました。
B面の踊りはテレビではやらないので、私がそれぞれの曲に合ったような振り付けを考えて構成していきました。
この4曲とトークを交えれば、与えられる時間の30分は立派にこなせます。
そしていよいよ為桜祭の当日を迎えました。
私たち4人はザ・シャネルズがデビュー時に実際にやっていた靴墨を顔に塗りたくり、黒い学生ズボンにお揃いの白いスーツを着てステージに上がりました。
私の下妻二高の彼女も、友達を大勢引き連れてしっかりと応援に駆けつけてくれました。
最初の1曲目は「ランナウェイ」からスタートです。
しかしバックバンドがガチガチに緊張しており、出だしから全く揃わずにたまらず市村が歌う前にストップをかけたのです。
「待った、待った。ゴメンナサイ!もう1回最初からやらして!」
この一言で会場が大爆笑に包まれ、それでバンドの緊張が一気に解けました。
それからは順調に曲が進み、最後の4曲目の「トゥナイト」を歌い終わった瞬間でした。
会場(体育館)から割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こったのです。
そして文化祭ではあり得ない、アンコールの大合唱が始まりました。
遠くの方からは、旧友の2年生である塚田が大声でこう叫びました。
「もう一回、最初から全部やれ!」
すでに持ち時間の30分を経過していたので、次のプログラムの順番がありましたが、私たちは運営委員会に特別にアンコールを了承されたのです。
アンコール曲は最初にやった「ランナウェイ」です。
私がなぜこの模様をセリフまで覚えているのかというと、このミニコンサートを録音したカセットテープをいまだに大切に保管しているからです。
現代ではスマホ一つで動画まで撮影できる世の中になっていますが、この当時はビデオカメラさえありませんでした。
あれから45年近くも月日は過ぎ去りましたが、私の高校時代の一番楽しい思い出として、いつまでも心に残っているのです。
何かに挑戦したいという気持ちは、いつの時代も大切なことですね(目立ちたかっただけだろ)。
第41話「国家公務員試験」へつづく。