第29話 アンコ椿は恋の花
「アンコ椿は恋の花」は都はるみの3枚目のシングル曲です。
当時、私の父がこの都はるみの大ファンで、よくこの歌を口ずさんでいました。
その都はるみが八千代町に完成した「八千代中央公民館」のこけら落とし公演に来ることになったのです。
当時私は中学2年生でした。
このコンサートは八千代町の町民が優先的に入場できるようになっていて、商店会かなんかのクーポンを集めればチケットをもらえるシステムになっていました。
父も母も一生懸命このクーポンを集め、何とかチケットを1枚だけゲットしたのです。
そして迎えたコンサートの当日、父は一張羅の服を着て、一人で公民館へと自転車で出かけていきました。
この日はまだデビューしたばかりの浅田のぼるという演歌歌手が前座で、その後に都はるみが登場する流れだったようです。
するとどうしたことでしょう?
まだコンサートが行われているだろうと思われた時間に、父がひょっこりと家に帰ってきたのです。
父が家を出てから、まだ2時間も経過していませんでした。
公民館までは、自転車で往復したら40分はかかります。
いくら田舎のコンサートとはいえ、こんなに早く終わるはずはありません。
母が父にこう聞きました。
「もう終わったの?ちゃんと最後まで聞いてきた?」
すると父は、
「おう。」とだけ返事をしていました。
そしてなぜか都はるみではなく、前座の浅田のぼるのチラシみたいなものを見て、その曲を口ずさんでいるのです。
母は何かを察したようで、それ以上父に何も聞くことはありませんでした。
そのやり取りを見ていた私は、勝手にこう想像しました。
おそらく父は、前座の浅田のぼるのステージはしっかり見たのでしょう。
そしていよいよ次は都はるみの登場となった時に、ビビッてしまったのかもしれません。
父は幼い頃から農業一筋で、この八千代町からもロクに出たことがありません。
芸能人を見る機会など全くないし、ましてやそれが自分が憧れている都はるみとあっては、緊張がMAXになったんではないでしょうか?
前座の後に休憩が挟まれたのか、席を立つ機会があって、そのまま帰って来てしまったのではないかと思いました。
そんな馬鹿なと思われるでしょうが、田舎のお父さんにとってあり得ない話でもないのです。
短気な父親でしたが、意外と小心者の気質があったことをわかっていたからか、母もそれ以上は何も父に尋ねませんでした。
もしかしたら都はるみの歌も何曲か聞いてきたかもしれませんが、初めて聞くような浅田のぼるの歌を口ずさんでいた父を見ると、そうは思えませんでした。
今となってはその真相を知る由もありませんが、チケットもったいねえだろ!と13歳の少年は呆れていたのです。
第30話「淡い恋心」へつづく。